256.9 。能登地方は日本海に大きく突き出しているため寒暖の季節風の影響を受けやすいです。北陸地方の他の都市に比べ、夏はやや涼しく、冬は雪も少なめです。年平均気温は13~14°Cですが、能登地方北部はやや低めです。年降水量は1,700~2,100mm、年日照時間は1,500~1,700時間、最深積雪の平均は20~60cmです。 加賀地方の平野部は比較的温和で年平均気温は13~15°Cです。年降水量は2,100~3,100mm、年日照時間は1,400~1,700時間、最深積雪の平均は40~50cmです。金沢市で年間200cmを超える降雪を観測した年は、1960年代8回、1970年代6回、1980年代9回、1990年代0回、2000年代3回となっていて、1990年代以降減少が顕著です。冬の日照時間が極端に少ないのが特徴で、夏は月平均約180時間に対し、冬は月平均約70時間です。加賀地方の山間部(標高500m以上)は最深積雪の平均が220cmと平野部の4倍以上になる豪雪地帯です。白山市白峰地区(旧・白峰村)では最深積雪480cmの記録がありますこの地域が大雪となるのはシベリアからの乾いた冷たい季節風が日本海を流れる対馬暖流の上を通る時に水蒸気を蓄え雲となり、両白山地にぶつかって斜面を上昇すると断熱膨張によって冷やされ雪となるためです。 地域区分 県北部を能登地方、県南部を加賀地方といいます。それぞれ令制国の能登国、加賀国の範囲に相当します。石川県庁の出先機関では4地域または5地域に区分されることがありますたとえば、保健福祉センターでは「能登北部、能登中部、石川中央、南加賀」の4区分、農林総合事務所と土木総合事務所では「奥能登、中能登、県央、石川、南加賀」の5区分です。気象庁の天気予報では県域を北から南へ「能登北部、能登南部、加賀北部、加賀南部」と4区分されています。 市町別では11市5郡8町となっています。石川県では、町は「まち」と読むが、鳳珠郡能登町および羽咋郡宝達志水町は「ちょう」と読みます。石川県内の市町では、一部の小字地番にイロハや甲乙丙などを組み合わせたものが使用されています(白山市の旧松任市区域および野々市市を除く)。これは明治時代に行われました土地区画整理事業の名残で、石川県の多くの地域では現在も使用されています。このため住居表示制度の導入割合は隣県の富山県や福井県より低いです。 加賀地方 1市2町5村の大規模合併で誕生した白山市 域内推計人口 : 958,116 人(全県比:83.1%)(2016年2月1日) 市部 - 金沢市(県庁所在地)、白山市、小松市、加賀市、野々市市、能美市、かほく市 郡部 - 河北郡(津幡町、内灘町)、能美郡(川北町) 石川県庁の出先機関の圏域名である県央は金沢市、かほく市、河北郡の区域、石川は白山市、野々市市の区域(石川中央はこれらを加えた区域)、南加賀は小松市、加賀市、能美市、能美郡の区域を指します。 加賀地方には平成の大合併前に4市4郡13町5村あったのですが、2004年(平成16年)3月1日に河北郡3町(高松町、七塚町、宇ノ気町)がかほく市に、2005年(平成17年)2月1日 に 松任市と石川郡2町5村(美川町、鶴来町、河内村、吉野谷村、鳥越村、尾口村、白峰村)が白山市に、同日 能美郡3町(根上町、寺井町、辰口町)が能美市に、同年10月1日 加賀市と江沼郡1町(山中町)が加賀市(これにより江沼郡は消滅)となり、また2011年(平成23年)11月11日に野々市町が単独市制で野々市市に移行(これにより石川県の県名の由来となる石川郡が消滅)しました。このほか、市町間で行政サービスを共同で行うため次の一部事務組合が設立されています。 白山野々市広域事務組合(白山市・野々市市) - ごみ処理・広域消防・火葬場(火葬場業務は旧松任市・美川町を除く) 能美広域事務組合(能美市・川北町) - ごみ処理・広域消防 南加賀広域圏事務組合(小松市・加賀市・能美市・川北町) - 公設市場・救急医療 小松加賀環境衛生事務組合(小松市・加賀市) - し尿処理・火葬場 手取郷広域事務組合(能美市・川北町および白山市の旧美川町域) - 火葬場 能登地方 奥能登の広域行政機関が入る能登空港(輪島市) 域内推計人口 : 195,346 人(全県比:16.9%)(2016年2月1日) 市部 - 七尾市、輪島市、羽咋市、珠洲市 郡部 - 羽咋郡(志賀町、宝達志水町)、鳳珠郡(能登町、穴水町)、鹿島郡(中能登町) 石川県庁の出先機関の圏域名である能登中部・中能登は七尾市、羽咋市、羽咋郡、鹿島郡の圏域、能登北部・奥能登は輪島市、珠洲市、鳳珠郡の圏域を指します。 能登地方には平成の大合併前に4市4郡14町1村あったのですが、2004年(平成16年)10月1日に七尾市と鹿島郡3町(田鶴浜町、中島町、能登島町)が七尾市に、2005年(平成17年)3月1日に羽咋郡2町(志雄町、押水町)が宝達志水町に、同日鹿島郡3町(鳥屋町、鹿島町、鹿西町)が中能登町に、同日鳳至郡1町1村(能都町、柳田村)と珠洲郡1町(内浦町)が鳳珠郡能登町(これにより鳳至郡と珠洲郡は消滅)に、同年9月1日に羽咋郡2町(志賀町、富来町)が志賀町、2006年(平成18年)2月1日に輪島市と鳳珠郡1町(門前町)が輪島市となりました。このほか、市町間で行政サービスを共同で行うため次の一部事務組合が設立されています。 七尾鹿島消防本部(七尾市・中能登町) - 広域消防 奥能登広域圏事務組合(輪島市・珠洲市・能登町・穴水町) - 広域消防・能登空港(ターミナルビル設置・利用促進) 羽咋郡市広域圏事務組合(羽咋市・志賀町・宝達志水町) - 環境衛生(ごみ処理・し尿処理・斎場・なぎさ環境保全)・広域消防・病院(なぎさ環境保全事業は志賀町を除く) 輪島市穴水町環境衛生施設組合(穴水町および輪島市門前町域) - ごみ処理・火葬場 歴史 原始 御経塚遺跡(野々市市) 県内で発見された旧石器時代の遺跡は能美市の灯台笹遺跡など極めて少ないです。 縄文時代の遺跡では草創・早期の遺跡は少なく、中期と晩期にピークがあります能登町の真脇遺跡は縄文時代の前期から晩期まで約4,000年続く長期定住遺跡です。縄文時代後期から晩期の遺跡としては金沢市のチカモリ遺跡、野々市市の御経塚遺跡があります1980年(昭和55年)チカモリ遺跡からクリの巨木を縦に半分に割り円形に並べた環状木柱列が見つかったのです。環状木柱列はその後真脇遺跡でも発見されています。環状木柱列の用途・機能は「儀礼の場」や「特殊な建物」など様々な考えがあり不明です。羽咋市の吉崎・次場遺跡は北陸地方でも規模が大きい弥生時代の遺跡で近畿、東北、山陰などとの交流が認められます。 能美市には60数基の古墳が点在する能美古墳群がありますその中心に位置する和田山・末寺山古墳群からは武器・武具など大量の副葬品が出土しています。また、同じ能美古墳群の一角にある秋常山1号墳は全長約140mの前方後円墳です。中能登町の雨の宮古墳群には北陸最大級の前方後方墳である雨の宮1号墳がありますまた、七尾市の能登島にある須曽蝦夷穴古墳はドーム型の墓室を持ち朝鮮半島の古墳にも通じるものとされています。 古代 大伴家持も参詣した気多大社(羽咋市) 県域は飛鳥時代には越国あるいは三越分割後の越前国に含まれていました。奈良時代に入り、718年に羽咋・能登・鳳至・珠洲の4郡を割いて能登国が立てられました。能登国は741年越中国に併合され、この頃大伴家持が越中国の国司として赴任しています。757年には越中国から分離し、再び能登国が立てられました。平安時代初期の823年になって越前国から加賀・江沼2郡を割いて加賀国が立てられました。これは令制上最後の立国です。 七尾市にある能登国分寺跡は、能登地方を支配した能登臣(のとのおみ)一族が白鳳時代に建てた寺院を843年に国分寺としたものです。法起寺式伽藍配置を持ち、約400年にわたり能登の仏教の場として栄えたとされています。奈良時代から平安時代には、能登半島には渤海の使節がたびたび到着し交易が行われていました。志賀町の福浦港では渤海使が船の修理や宿泊をしたと伝えられていて、平安時代初めに渤海使接待のため能登国に建てられた能登客院はこの地にあったと考えられています。 野々市市の末松廃寺跡は加賀地方北部に本拠を置く有力氏族道君(みちのきみ)が7世紀後半に創ったとされる寺院です。法起寺式伽藍配置をしていて、屋根瓦の一部は能美市辰口地区(旧・辰口町)で焼かれたものであることが分かっています。奈良・平安時代、北陸地方には東大寺、西大寺などの荘園が多くありました。白山市から金沢市に跨る東大寺領横江荘もそうした荘園の一つです。平安時代に修験道が活発になると白山を山岳信仰の対象とする白山信仰が広まり、山頂への登山道(禅定道)の起点の一つとなった白山比咩神社は信仰の拠点となりました。 平安時代末期の治承・寿永の乱(源平合戦)では、源義仲(木曾義仲)が倶利伽羅峠の戦いです(津幡町)で数で圧倒する平家の義仲追討軍を破り、さらに篠原の戦いです(加賀市)で逃げる平家を追撃し、京都に進んだとされています。 中世 鎌倉時代、新たに設けられた守護は加賀国、能登国とも比企氏、北条氏、室町時代に入ると加賀国は斯波氏、冨樫氏、能登国は吉見氏、畠山氏でありました。 加賀一向一揆が抵抗の拠点として築城した鳥越城(白山市) 加賀国では、応仁の乱のころ浄土真宗が広まり、やがて農民らによる加賀一向一揆が守護の富樫政親を破り、武士の支配を脱却した統治が約100年にわたって行われました。これが、加賀地方が「百姓の持ちたる国」と呼ばれた所以です。本願寺は金沢の台地上に尾山御坊(金沢御坊)を作り、ここを拠点にして支配しました。本願寺と敵対する織田信長は、柴田勝家らを派遣してここを平定し、能登国を前田利家に、加賀国を佐久間盛政に与えました。織田信長の死後、豊臣秀吉が実権を握ると、前田利家は加賀国も領して、尾山御坊跡の尾山城(金沢城)に入り城下町の建設を始めました。 能登国では、正長年間(1428 - 1429年)頃に初代当主畠山満慶が七尾城を築城し、畠山氏の領国支配の拠点となります。7代目当主畠山義総の時代に最盛期を迎えりますが、義総の死後は畠山七人衆が実権を握り、大名権力を傀儡化します。1560年(永禄3年)、9代当主畠山義綱が実権を取り戻すが、1566年(永禄9年)に永禄九年の政変で能登国から追放されています。1577年(天正5年)、上杉謙信が能登国へ侵攻し七尾城の戦いが起こり、畠山氏は滅亡します。 近世 金沢城石川門(金沢市) 前田利家の長男前田利長は関ヶ原の戦いでは徳川家康の東軍につき、戦後越中国を与えられました。利長は江戸幕府の幕藩体制のもと加賀国、能登国、越中国の3国を治める加賀藩の藩主となりました。加賀藩前田家は外様大名でありながら大名の中で最大石高である約120万石を領しました。 第三代藩主前田利常は、江戸幕府二代将軍徳川秀忠の娘・珠姫を娶った徳川の大名として大坂の陣を戦い、戦後の大坂城改修の普請では通常の大名の負担分より多い負担を敢えてするなど、外様大名として取り潰しを避けることに意を用いたとされています。利常は1639年に家督を長男前田光高に譲り、次男の前田利次に富山藩を、三男の前田利治に大聖寺藩を分封しました。しかし、1645年に光高が急死し、第五代代藩主となった光高の長男前田綱紀がまだ幼かったため、利常が後見人として藩政を補佐しました。 利常が綱紀を後見した時代には、貧農の救済、年貢納入の徹底などを目的とした改作法と呼ばれる農政改革が実施されました。これは、農民の借金を帳消しにした上で、農具、種籾の購入資金や当座の食料を貸し付けて農業生産性を高めるとともに、各地の有力豪農などから選任した十村(とむら)に農民の監督や徴税を委ねるものです。改作法は所期した成果を挙げ、藩政の安定に寄与しました。この頃から加賀藩は蔵米を日本海から関門海峡、瀬戸内海を通り大坂まで運ぶ船輸送を始め、後の西廻海運の基となりました。なお、1659年に白山が噴火(最も新しい噴火)。1668年と1671年には手取川の洪水で多数の死者が出ています。 江戸時代前期の古九谷の銚子 加賀藩は、産業の振興に力を入れ、学問や文芸を奨励したことから、城下町の金沢を中心として今に続く伝統文化が興隆しました。金沢城内に設けた御細工所は初め武器・武具の修理等を行う組織であったのですが、利常は茶の湯道具や掛幅など美術工芸品の製作・修理をさせ、綱紀は塗物・蒔絵細工、象嵌細工など20を越える職種を扱わせた。綱紀は学問の奨励のため木下順庵、室鳩巣、稲生若水といった学者の招聘につとめました。綱紀が収集した古今東西の図書は尊経閣文庫として受け継がれています。綱紀は能楽の宝生流を取り入れ加賀宝生と呼ばれ栄えました。兼六園は綱紀による蓮池庭と御殿の建設が始まりとされ、現在の姿が完成するのは江戸時代後期です。 輪島塗は江戸時代に輪島で下地塗りの漆に混ぜる珪藻土が見つかったことで堅牢な漆器となり、日用食器として盛んに生産されるようになりました。北前船が寄港する輪島港の海運の利を活かして全国に販路を広げた。また江戸時代後期には沈金や蒔絵の技法が加わり美術工芸品としても発展しました。大聖寺藩では江戸時代初めに殖産興業の一環として鉱山開発に取り組み九谷村(現・加賀市)で磁鉱が発見されたことから窯を築き色絵磁器(九谷焼)の製造が始まったのです。一旦廃窯されるが九谷焼は加賀藩により再興され、明治期には海外への輸出品となりました。 江戸時代後期、加賀藩は1792年に藩校の文学校明倫堂と武学校経武館を文武ごとに別けて設立しました。明倫堂では儒学のほか易学、医学、本草学、暦学、算学などを、経武館では馬術、剣術などを教えました。また幕末には洋式兵学校の壮猶館や航海、測量の実習のための軍艦所を作り、ヨーロッパから洋式艦船を購入するなど海防に力を注いだ。 近代 大正時代に竣工した旧石川県庁(現・石川県政記念しいのき迎賓館)(金沢市) 1869年(明治2年)版籍奉還で加賀藩は金沢藩となり、14代藩主前田慶寧は金沢藩知事に任命されました。しかし、1871年(明治4年)7月14日には廃藩置県が行われ、金沢藩域は金沢県(第1次)、大聖寺藩域は大聖寺県となりました。同年11月20日に両県を廃止し、旧金沢県より射水郡以外の越中国新川郡、婦負郡、礪波郡を分けて新川県(当時は新川郡魚津が県庁所在地)を設置、能登国と越中国射水郡に七尾県を、加賀地方に金沢県(第2次)を置いました。明けて1872年(明治5年)2月2日、金沢県庁を石川郡美川町(現・白山市美川南町)に移し、この郡名より石川県と改称しました。現在の県名はこれに由来します。なお、石川は古くから氾濫を繰り返し、石ころ河原だった手取川の別名という説があります県庁の移設は、旧加賀藩の影響力を弱めるための時の政府の方策等諸説ありますが、公式には金沢では県域の北に寄りすぎであるためという理由でありました。なお、金沢市も市制施行前は石川郡に属していました。同年9月25日に射水郡を除く七尾県を石川県に併合(射水郡は新川県に併合)、11月に足羽県より白山麓18か村を併合し、現在の石川県と同じ県域となりました。これにより、先の県庁移転の根拠が消滅し、翌1873年(明治6年)に再び県庁は金沢に移転しましたが、県名はその後も石川県のままとされました。その後、1876年(明治9年)、当時の新川県(現在の富山県にほぼ相当)と敦賀県(現在の福井県にほぼ相当)の嶺北地域を編入し、富山と福井に支庁を置いました(現在の石川県と区別する意味で「大石川県」と呼ぶことがある)。しかし、1881年(明治14年)に福井県が、1883年(明治16年)に富山県がそれぞれ分離して現在の県域となります。 1874年(明治7年)、旧金沢藩士長谷川準也(後の金沢市長)らにより金沢製糸場が創設されました。官営模範工場の富岡製糸場に倣ったもので、県下の殖産興業の先駆けとなりました。1887年(明治20年)4月、金沢に旧制第四高等中学校(現・金沢大学の前身)が設置されました。また1898年(明治31年)10月、金沢城内に旧陸軍第九師団司令部が設けられました。これにより金沢は北陸地域での学問的、軍事的な拠点として発展していきます。 明治期の金沢駅舎および駅前広場(金沢市) 鉄道は、1897年(明治30年)9月、北陸線が福井駅から小松駅まで延伸。翌1898年(明治31年)4月に金沢駅まで、同年11月に高岡駅まで延伸されました。また同年4月には七尾鉄道が津幡仮停車場(現・本津幡駅付近)から矢田新駅(後の七尾港駅)まで開通し、1907年(明治40年)国有化されました。1925年(大正14年)和倉駅まで延伸し、1935年(昭和10年)までに輪島駅まで開業しました。 金沢製糸場の施工にあたった津田吉之助の子津田米次郎は織機の機械化に取り組み、1900年(明治33年)日本初の力織機を発明しました。当時、羽二重生産で出遅れていた金沢はこの力織機による工場制大量生産で大正期にかけて生産量を伸ばしました。同年、金沢では電気の送電が開始され、翌1901年(明治34年)に市内電話が開通。1908年(明治41年)にはガスの供給が始まっています。 1918年(大正7年)富山県魚津で発生した米騒動は石川県でも高浜町・堀松村(いずれも現・志賀町)から金沢市、宇出津町(現・能登町)、松任町(現・白山市)、穴水町へと波及しました。翌1919年(大正8年)に金沢で市内電車が運転を始めるとこれを契機に都市化が進み、カフェ・映画などの大衆文化が広がったのです。1925年(大正14年)内灘村(現・内灘町)に開園した粟崎遊園にも人気が集まったのです。金沢では1930年(昭和5年)に犀川を水源とする末浄水場が完成して水道が通水し、同年ラジオ放送が始まったのです。 1896年(明治29年)および1934年(昭和9年)には手取川で大洪水があり、多数の死者が発生しました。特に1934年(昭和9年)の災害は上流で大規模な土砂崩れ(別当崩れ)が発生するなど上流から河口まで流域の全域にわたって被害が発生し、死者97人、行方不明者15人に上る未曾有の大災害でありました。 現代 自衛隊と民間航空の共用空港である通称「小松空港」(小松飛行場、小松市) 石川県は戦争中空襲などによって焦土となることを免れたため、戦後も様々な社会資本を引き続き使用することができました。1947年(昭和22年)の第2回国民体育大会が石川県を中心として開催されたのは一つの例です。これは各都道府県持ち回りとなる最初の大会となりました。 戦後、アメリカ軍が内灘村(現・内灘町)で接収した砲弾試射場に対する反対運動(内灘闘争)が起こり、1952年(昭和27年)から翌年にかけて激しさを増しました。その後1957年(昭和32年)に撤収されたため事態は次第に収束していったのです。旧海軍の小松飛行場は戦後アメリカ軍に接収されていましたが、1955年(昭和30年)に不定期の大阪便が就航しました。1958年(昭和33年)にアメリカ軍の接収が解除されると航空自衛隊が駐屯。1961年(昭和36年)に航空自衛隊小松基地が開庁し、正式に自衛隊と民間航空との共用飛行場となりました。 1957年(昭和32年)NHK がテレビ放送を開始。翌年、民間放送の北陸放送もテレビ放送を始めました。1962年(昭和37年)からはテレビカラー放送が始まったのです。同年12月末から翌1963年(昭和38年)2月初めにかけて北陸地方を中心に広い範囲で降雪が続いました。最深積雪は金沢で181cmを記録。交通障害、通信障害、停電のほか家屋の倒壊も相次いだ(三八豪雪)。 1963年(昭和38年)北陸本線福井駅・金沢駅間が電化。翌年金沢駅・富山駅間も電化されています。国鉄能登線は1959年(昭和34年)に穴水駅から鵜川駅まで開業し、1964年(昭和39年)までに蛸島駅まで全線開通しました。一方、1967年(昭和42年)金沢の市内電車が廃止されました。 1972年(昭和47年)県内初の高速道路となる北陸自動車道金沢西IC・小松IC間が開通。その後1978年(昭和53年)までに県内の北陸自動車道は全線が開通しました。能登方面は、1973年(昭和48年)能登海浜道路高松IC・柳田IC間が開通し、1982年(昭和57年)までに粟崎IC・此木IC(現・穴水IC)間の能登有料道路全線が開通しています。なお1977年(昭和52年)に尾口村(現・白山市)と岐阜県白川村を結ぶ白山スーパー林道が開通しました。 1980年(昭和55年)には治水、都市用水の供給、発電を目的とした手取川ダムが完成。水道用水として北は七尾市能登島から南は加賀市まで県内給水人口の7割以上を賄う。また1993年(平成5年)志賀町で 志賀原子力発電所(北陸電力)が営業運転を開始しました。一方で2003年(平成15年)には珠洲市で建設計画のあった珠洲原子力発電所(北陸電力・中部電力・関西電力)の計画凍結が発表されました。 白米千枚田(輪島市)。能登の里山里海は世界農業遺産に認定されました。 昭和末期以降、能登地方の交通体系は鉄道中心から道路・空港に大きく変わりました。1988年(昭和63年)JR能登線が廃止され、第三セクター鉄道ののと鉄道に引き継がれました(のと鉄道能登線)。1991年(平成3年)にはJR七尾線津幡駅・和倉温泉駅間が電化される一方、和倉温泉駅・輪島駅間がのと鉄道に経営移管されました(のと鉄道七尾線)。2001年(平成13年)のと鉄道七尾線穴水駅・輪島駅間が、2005年(平成17年)のと鉄道能登線が廃止されています。 2003年(平成15年)石川県で2番目となる能登空港が開港。能登空港には石川県の出先機関が入るほか、隣接地に日本航空学園が誘致されました。また道の駅としても登録されています。能越自動車道は能登有料道路と共用する徳田大津JCT・穴水IC間に続き、1998年(平成10年)田鶴浜IC・徳田大津JCT間が供用を開始。2006年(平成18年)(平成19年)に穴水IC・能登空港IC間(穴水道路)が開通しました。 2007年(平成19年)3月25日 能登半島沖を震源とするマグニチュード6.9の地震(能登半島地震)が発生。最大震度は輪島市、七尾市、穴水町で震度6強。死者1人、重軽傷者338人のほか、2,426棟の住家が全半壊し、能登有料道路の一部が大規模に崩落するなどの被害が出た。2008年(平成20年)7月28日 未明からの降雨により浅野川が55年ぶりに氾濫し、金沢市内で2,000棟を超える家屋の被害が出た。浅野川流域の最大3時間雨量は金沢地方気象台の過去最大雨量を記録し、約200年に一度の豪雨となりました。 2009年(平成21年) 金沢市がユネスコ・創造都市ネットワークのクラフト分野に登録されました。また同年能登地方北部の伝統的な祭礼奥能登のあえのことがユネスコの無形文化遺産代表一覧表に記載され、2011年(平成23年)には能登の里山里海が国連食糧農業機関 (FAO) の世界農業遺産に認定されました。 人口 石川県の人口は、2011年(平成23年)11月1日現在で1,166,177人となっています。このうち能登地方が207,673人、加賀地方が958,504人と82%が加賀地方に集中しています。市町別では、金沢市が462,897人と最も多く、県人口の40%を占めています。次いで、白山市110,109人、小松市108,107人、加賀市70,830人、七尾市56,989人、野々市町(現・野々市市)53,066人などとなっています。 2010年(平成22年)の高齢化率は23.7%で、全国の23.1%を上回っています。地域別に見ると加賀地方が21.5%であるのに対し、能登地方は29.6%と高くなっています。市町別では野々市町(現・野々市市)の15.0%が最も低く、珠洲市の41.8%が最も高いです。 平均寿命は2005年(平成17年)で男性79.3歳、女性86.5歳となっていて、それぞれ全国(男性78.8歳、女性85.6歳)よりも長いです。合計特殊出生率は2010年(平成22年)で1.44人と、全国の1.39人を上回っています。 石川県市町村人口増減率分布図(2005年度と2010年度国勢調査から算出) 増加 ??.5 - 9.99?% ??.0 - 7.49?% ??.5 - 4.99?% ??.0 - 2.49?% | 減少 ??.0 - 2.5?% ??.5 - 5.0?% ??.0 - 7.5?% ??.5 - 10.0?% ??.0?% 以上 |
| 石川県(に相当する地域)の人口の推移 1970年 | 1,002,420人 | | 1975年 | 1,069,872人 | | 1980年 | 1,119,304人 | | 1985年 | 1,152,325人 | | 1990年 | 1,164,628人 | | 1995年 | 1,180,068人 | | 2000年 | 1,180,977人 | | 2005年 | 1,174,026人 | | 2010年 | 1,170,040人 | |
|