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姶良市 庭 出張エリア
- 姶良市宮島町
- 姶良市東餅田
- 姶良市西宮島町
- 姶良市西餅田
- 姶良市平松
- 姶良市池島町
- 姶良市永池町
- 姶良市脇元
- 姶良市船津
- 姶良市三拾町
- 姶良市鍋倉
- 姶良市永瀬
- 姶良市増田
- 姶良市中津野
- 姶良市豊留
- 姶良市深水
- 姶良市住吉
- 姶良市寺師
- 姶良市下名
- 姶良市上名
- 姶良市大山
- 姶良市北山
- 姶良市木津志
- 姶良市西姶良
- 姶良市加治木町反土
- 姶良市加治木町仮屋町
- 姶良市加治木町新富町
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- 姶良市加治木町朝日町
- 姶良市加治木町本町
- 姶良市加治木町港町
- 姶良市加治木町木田
- 姶良市加治木町錦江町
- 姶良市加治木町新生町
- 姶良市加治木町西別府
- 姶良市加治木町辺川
- 姶良市加治木町小山田
- 姶良市加治木町日木山
- 姶良市蒲生町上久徳
- 姶良市蒲生町米丸
- 姶良市蒲生町漆
- 姶良市蒲生町西浦
- 姶良市蒲生町北
- 姶良市蒲生町白男
- 姶良市蒲生町久末
- 姶良市蒲生町下久徳
- 姶良駅
- 鹿児島県姶良市西餅田
- 加治木駅
- 鹿児島県姶良市加治木町反土
- 錦江駅
- 鹿児島県姶良市加治木町新生町
- 重富駅
- 鹿児島県姶良市脇元
- 帖佐駅
- 鹿児島県姶良市東餅田
※離島やスタッフの欠員状況により、一部地域の対応ができない場合があります。対応地域についてはお気軽にお尋ね下さい。
姶良市 エリア情報
重富海水浴場
霧島錦江湾国立公園内にあり、白砂と青松が数百メートル続く風光明媚な海水浴場。干潟を通して雄大な桜島を望むことも出来る。夏には多くの人々が海水浴を楽しみに訪れるという。松林の木陰は真夏でも涼しく、強い日差しから守ってくれるだろう。脱衣所やシャワー棟も整備されているので安心。
姶良市(あいらし)は、鹿児島県中央部に位置する、2010年(平成22年)3月23日に姶良郡蒲生町・姶良町・加治木町が合併して発足した市です。2009年(平成21年)9月1日現在の合併元3町の推定人口の合計値は74,545人です。鹿児島市に隣接していて、ベッドタウンとして発展しています。
姶良市は、鹿児島県中部の南北約25 km、東西約24 kmの範囲に広がります。南東側の一部を鹿児島湾に面しています。鹿児島湾に面した地域では、西側から思川・別府川・網掛川・日木山川の4つの河川が流れていて、これらの川の沖積平野が一体となって姶良平野を形成し、この平野部に中心市街地が発達しています。西側の鹿児島市へと通じる海岸や、東側の霧島市との境界付近の海岸は自然海岸が残されていますが、他は埋め立てで形成された人工海岸となっています。別府川は旧蒲生町の中心部であった地域まで標高の低い平坦な土地を形成していて、この流域に整備された水田地帯が広がっています。市の北部は北薩火山群に属する山が並ぶ地形で、北西側の薩摩川内市との境界がほぼ川内川流域との分水界をなしています。こうした山の間には別府川の支流が流れていて、これに沿っていくつかの集落が発達しています。一方北東側の霧島市との間は十三塚原と呼ばれる台地が続く地形で、網掛川や日木山川の支流が霧島市側から流れ込んでいます。南西側の鹿児島市との境界は、標高が500 m前後の牟礼ヶ丘連山となっていて、姶良市の平野部および海岸線へ急激に落ち込んでいます。牟礼ヶ丘連山の北側で、思川が鹿児島市側から流れ込み、比較的標高の低い土地が鹿児島市に合併した旧吉田町の中心部へつながっています。市内で標高が500 mを超える山として烏帽子岳(702.9 m)・長尾山(680 m)・佛石(679 m)・矢止岳(670 m)・赤崩(579 m)・惣林嶽(506 m)などがあります
鹿児島湾北部にかつて存在していた火山が約2万5000年前に姶良大噴火と呼ばれる噴火を起こし、姶良カルデラを形成しました。姶良市はこのカルデラの北西側の外輪山に相当する位置にあり、大噴火で流れ出た火砕流が起源とされるシラスと呼ばれる地層が広がっています。火山活動に由来する市内の地形としては他に、マールであるとされる米丸や住吉池があります
南部平野地帯は鹿児島市のベッドタウンとして発達し、駅や国道の周辺に住宅地が広がり、国道10号姶良バイパス・加治木バイパスの周辺には郊外型の大型店舗が立ち並んでいます。国道10号と九州旅客鉄道(JR九州)日豊本線はおおむね市南部を東西方向に横切っていて、鹿児島市への連絡は姶良カルデラ外輪山の急斜面が海に落ち込む狭い土地を通っています。これらの交通路はがけ崩れに弱く、平成5年8月豪雨など道路および鉄道の連絡が遮断されることがあります九州自動車道はこれらより北側を通っていて、旧吉田町を経由して鹿児島方面へ通じています。北部山間地帯へは県道40号・42号・55号・56号などが通じていますが、南部平野地帯に比べると交通が不便で、過疎が進展している状況にあります。
市の面積の約65 パーセントを山林が占めています。中部平野地帯は整備された水田となっていて、また北東側の霧島市と境界を接する台地の上は畑作地帯となっています。
隣接している市町村
鹿児島市 霧島市 薩摩川内市
市内の地名
姶良市で住所として用いられている地名は、姶良市が成立した合併に際して、旧姶良町内の地名はそのまま引き継がれ、旧加治木町内・旧蒲生町内の地名は「加治木町」「蒲生町」をそれぞれ頭に冠することになっています。旧姶良町に関してはそれ以前の山田村、帖佐町、重富村に分けて示す。
姶良町という町名は、1955年(昭和30年)の合併での成立時に郡名から採用されたものでありました。姶良郡という地名は、古代に大隅国が設置された際の姶羅郡に由来しています。しかしこの姶羅郡は現在の鹿屋市周辺の地名で、現代の姶良郡は桑原郡などと呼ばれていました。江戸時代頃から桑原郡の西部を始羅郡(しらぐん)と呼ぶようになり、これがかつての姶羅郡と混同されたことから、明治時代初期に姶良郡が正式な名前として採用されることになりました。
蒲生町
畳の原料として使用した蒲草が繁茂していたことから「蒲生」という地名が付いたとされています。滋賀県の蒲生は「がもう」と読むが、こちらは「かもう」と濁らずに読みます。
蒲生町漆(かもうちょううるし)
蒲生町の最北端にあり、農業地域です。漆小学校が所在します。かつては多くの金山が存在していました。面積は16.29 平方キロメートル、2010年10月1日現在166世帯301人が住みます。
蒲生町西浦(かもうちょうにしうら)
北西部、薩摩川内市との境界に広がる地域で、山間部の低地に集落があります養蚕業を中心産業としていた地域でありました。西浦小学校があります面積は11.76 平方キロメートル、2010年10月1日現在160世帯347人が住みます。
蒲生町白男(かもうちょうしらお)
薩摩川内市や鹿児島市に挟まれた姶良市最西端にある地域で、前郷川に沿って集落と田が広がっています。2つの小学校がありますがいずれも休校中。面積は22.41 平方キロメートル、2010年10月1日現在234世帯501人が住みます。
蒲生町久末(かもうちょうひさすえ)
蒲生町南部の鹿児島市(旧吉田町)との境界に広がる地域で農業地帯です。蒲生城はこの地域に所在していました。江戸初期にはこの地区の蒲生城と前郷川の間の辺りに地頭仮屋がおかれていましたが、享保頃に上久徳に移転しました。面積は9.66 平方キロメートル、2010年10月1日現在73世帯161人が住みます。
蒲生町北(かもうちょうきた)
上久徳の北西側に細長く広がっている地域で、上久徳に接するあたりは住宅が多いです。蒲生中学校などがあります面積は3.82 平方キロメートル、2010年10月1日現在240世帯573人が住みます。
蒲生町米丸(かもうちょうよねまる)
火山活動により形成されたマールであると考えられる米丸という盆地になっています。この盆地は深田になっていましたが、明治中頃の耕地整理で広大な乾田に生まれ変わり、米の生産量が大幅に増加しました。蒲生カントリークラブが所在しています。面積は8.25 平方キロメートル、2010年10月1日現在287世帯633人が住みます。
蒲生町上久徳(かもうちょうかみぎゅうとく)
蒲生町の中心部で、整然とした区画の住宅地や商店街が広がりかつての武家屋敷の名残を留めています。蒲生八幡神社が所在しています。面積は3.62 平方キロメートル、2010年10月1日現在1,012世帯2,326人が住みます。
蒲生町下久徳(かもうちょうしもぎゅうとく)
蒲生川より南側にある地域で上久徳に比べると人口はずっと少なく田園地帯となります。蒲生高校が所在しています。古代の駅伝制における蒲生駅はこの辺りに所在していたと考えられています。面積は3.66 平方キロメートル、2010年10月1日現在799世帯2,164人が住みます。
姶良町
旧山田村
山間の田んぼという意味で山田となったと考えられていますが、古い時代の文書には記録がなく、1555年(天文24年)頃の文書に初めて「山田」という地名が現れています。しかし当時は帖佐郷の一部で、1580年(天正8年)の文書で山田郷という独立した郷になっています。いつ頃に分割されたかははっきりしません。
北山(きたやま)
町北部の広い範囲を占めるが山間地で、人口は少ないです。北山小学校・スターランドAIRA・県民の森・梅北神社などがあります山田の北という意味で北山田ということが由来の地名。2010年10月1日現在179世帯323人が住みます。
木津志(きづし)
重富郷成立の際に蒲生郷から山田郷に編入された、北山の西側に位置する地区ですが、城野神社とそれに関連する郷士のみは明治になるまで蒲生郷に属していました。また、柊野(くきの)地区は1955年(昭和30年)に蒲生町に編入されています。切通しがなまって木津志になったとされています。2010年10月1日現在64世帯118人が住みます。
上名(かみみょう)
北山の東側に位置します。目木金(めきがね)に危険物処理場があります奈良時代に創建されたとされる黒島神社が所在します。元は山田村の一部。山田は開拓者である鈴木政氏・宮牟礼政良兄弟の名田であったことから、そのうちの上手を上名と呼んだことからついた地名です。2010年10月1日現在194世帯390人が住みます。
下名(しもみょう)
山田の中心部で、かつての山田村役場が所在し、今も山田中学校・山田小学校などがあります山田の凱旋門はここに所在しています。元は山田村の一部。上名に対して下手にあることから下名と呼ばれます。2010年10月1日現在251世帯573人が住みます。
大山(おおやま)
下名の東側に位置する地域で、日枝神社があります2010年10月1日現在90世帯342人が住みます。
旧帖佐町
大隅国府の税を収納する役職を帖佐職と呼んだことが起源であるとする説と、古代のこの地方の地名答西(たふせ)がなまったものであるという説があります
寺師(てらし)
菅原道真の伝説がある臥龍梅があります旧山田郷から編入。鈴木兄弟が奈良時代にこの地へやって来た時に、勧請した住吉大明神の神輿を増田のあたりに仮安置したところ、にわかに空が明るくなってあたりを照らし出したので、「てらし」という名前が付けられました。古くは「寺子」とも書いていました。2010年10月1日現在164世帯369人が住みます。
住吉(すみよし)
摂津国の住吉大社から勧請したことから付いた地名で、北側に住吉池があります2010年10月1日現在96世帯237人が住みます。
永瀬(ながせ)
住吉の南側、蒲生町と隣接する地帯で水田が広がります。三船小学校が所在します。2010年10月1日現在57世帯152人が住みます。
増田(ますだ)
永瀬と中津野の間にあり、水田地帯。住吉明神の勧請の際に、仮安置した神輿の前に臼や枡が出現し米が降ってきたことから、これを神の啓治として、枡田と名づけました。益田などともかつては書かれていました。2010年10月1日現在204世帯508人が住みます。
中津野(なかつの)
蒲生川と山田川が合流して別府川となる地点にあり、中津野用水路によって水田が開かれました。老神(おいかみ)神社があります2010年10月1日現在70世帯183人が住みます。
深水(ふかみず)
山田川の左岸、山との間にある集落。2010年10月1日現在22世帯43人が住みます。
豊留(とよどめ)
別府川の氾濫原に耕地整理された広大な水田地帯が広がっています。和銅年間に豊前国から移住してきた住民がここに住んだと言われています。2010年10月1日現在74世帯164人が住みます。
三拾町(さんじゅうちょう)
平山了清が下ってきた時に、このあたりは幅が三十町にもおよぶ広い池になっていたとされることから付けられた地名です。西側は水田が広がりますが、南側は麓集落になっています。2010年10月1日現在227世帯552人が住みます。
鍋倉(なべくら)
旧帖佐町の役場があった地域で、古くからの帖佐の中心でありました。平山城跡や米山薬師、島津義弘の館であった宇都御屋地跡、古帖佐焼窯跡などがあります帖佐小学校や姶良郵便局などを中心に集落があります2010年10月1日現在367世帯948人が住みます。
東餅田(ひがしもちだ)
姶良町の南東側の別府川沿いに広い地域を占めていて、大半が新しく開発された住宅地となっています。帖佐駅や鹿児島県総合運転免許試験場があります海岸側の通称地名は松原と呼ばれていましたが、2011年10月8日付で住居表示が設定され独立した町となりました。2010年10月1日現在4,373世帯10,680人が住みます。
松原町(まつばらまち)
東餅田における区画整理事業の進展に伴って、2011年10月8日付でその一部が分離されて松原町一丁目 - 松原町三丁目として発足した町。
西餅田(にしもちだ)
東餅田との間には宮島町と西宮島町が挟まっています。帖佐中学校や姶良駅などがある広い地域で、国道10号バイパスなどを中心に郊外型の店舗なども発達しています。海岸側は古くから住宅がありますが、北側は新興の団地が多いです。2010年10月1日現在4,646世帯11,796人が住みます。
宮島町(みやじままち)
合併で姶良町が成立した後、1968年(昭和43年)に東餅田と西餅田の一部を分割して設置した新たな町です。姶良町成立後に新たに姶良町役場が建設されて姶良町の中心部として発展し、都市計画に沿って発達した商業地域が広がっています。姶良市役所の本庁はそのまま姶良町役場に置かれています。2010年10月1日現在510世帯1,051人が住みます。
西宮島町(にしみやじままち)
宮島町の西側で同じく合併後に新たに設置されました。2010年10月1日現在260世帯576人が住みます。
旧重富村
1739年(元文4年)にそれまでの帖佐郷から分割されて重富郷が設置された地域で、越前島津氏を再興してその領地としたことから、越前島津氏初代の所領であった越前国の地名から採られて重富と名づけられました。
船津(ふなつ)
重富の中心部からは台地を越えて北にある地域。かつて船津小学校があったのですが旧帖佐町立の三叉小学校と合併して三船小学校となりました。両地区を結ぶ橋も三船橋です。平山了清の下ってきた時に、別府川を遡上してこの付近にあった石に括りつけて繋留したという伝説があることから船津という名前が付いたという説がありますが、実際にはこれより前から船津の名前は記録に残されていて、単に別府川の船着き場という意味では無いかとされています。2010年10月1日現在364世帯821人が住みます。
西姶良(にしあいら)
新興住宅団地姶良ニュータウンに新たに設置された地名(旧名は平松)。西姶良1丁目から4丁目に分かれています。2010年10月1日現在1,345世帯3,743人が住みます。
池島町(いけじままち)
思川の屈曲している部分にある町で、国道10号姶良バイパスが開通したことによって発展しつつあります。かつては平松と脇元の一部であったのですが、1975年(昭和50年)1月7日に分割されて成立しました。2010年10月1日現在545世帯1,286人が住みます。
永池町(ながいけまち)
池島町の西側にあり、同じく合併後の設定地名。2010年10月1日現在379世帯953人が住みます。
平松(ひらまつ)
重富の大半を占めている地区で、重富の中心部から鹿児島市との境界まで広がっています。重富小学校や重富中学校、町の重富出張所などがあり、都市化が進展しています。2010年10月1日現在3,185世帯8,009人が住みます。
脇元(わきもと)
重富駅や重富漁港がある重富の海岸側の地名で、崖下を鹿児島市との境界までつながっています。2010年10月1日現在749世帯1,652人が住みます。
加治木町
加治木という地名は、船の舵を置いておいたら、そこから芽が出て木が生えたという「柁の木伝説」に由来します。ここから「柁木」「柁城」と呼ばれるようになり、やがて「加治木」になったとされています。加治木町仮屋町にはこの伝説の木に由来するとされるクスノキがあり、その向かいには柁城小学校(だじょうしょうがっこう)がありますまた加治木町の町の木はクスノキでありました。
加治木町西別府(かじきちょうにしべっぷ)
加治木町の北西部、姶良町との境界付近にあり、また北側は霧島市に面しています。加治木町の中では面積が最大であったのですが、人口は少なく山間に小さな集落が点在するのみです。永原小学校や高岡公園、さえずりの森、姶良市のごみ焼却場などがあります2010年10月1日現在293世帯635人が住みます。面積は13.89 平方キロメートル。
加治木町辺川(かじきちょうへがわ)
西別府と小山田の間にあり、もともと旧山田村の飛地であった地域で、飛地の不便を解消するために1957年(昭和27年)10月10日に加治木町へ編入されました。山間部に小さな集落があります2010年10月1日現在87世帯195人が住みます。面積は2.92 平方キロメートル。
加治木町小山田(かじきちょうこやまだ)
加治木町北東部の霧島市との境界付近に広がる十三塚原と呼ばれる台地の地域で、道路沿いに集落がいくつかあります。龍門司焼(りゅうもんじやき)の生産が行われる地域で、陶夢ランドがあります2010年10月1日現在620世帯1,421人が住みます。面積は11.70 平方キロメートル。
加治木町日木山(かじきちょうひきやま)
日木山川より東側にある地域で霧島市との境界に当たっています。霧島市に食い込むように東に延びています。南部は海岸に面し霧島市との境界が黒川岬となっています。また加治木のシンボル的な存在である蔵王岳があります精矛神社があります2010年10月1日現在292世帯711人が住みます。面積は5.21 平方キロメートル。
加治木町木田(かじきちょうきだ)
網掛川より西側にあり、隣接する姶良町と別府川で境界を接しています。国道10号が通っていて、これを中心にレストランや大型店舗などが立ち並んでいます。人口も多く、国立病院機構南九州病院・姶良市消防本部・加治木小学校・龍桜高・加治木町文化会館「加音ホール」などがあります2010年10月1日現在3,079世帯8,520人が住みます。面積は5.36 平方キロメートル。
加治木町新生町(かじきちょうしんせいまち)
JR日豊本線と国道10号バイパスの間にある団地の広がる地域。錦江駅のすぐ北側にあります。2010年10月1日現在773世帯1,985人が住みます。面積は0.20 平方キロメートル。
加治木町錦江町(かじきちょうきんこうまち)
1957年(昭和32年)に木田から分割されて設置されました。町名は鹿児島湾の別名である錦江湾にちなみます。錦江小学校(にしきえしょうがっこう)があり、商店と住宅が混在しています。2010年10月1日現在304世帯663人が住みます。面積は0.14 平方キロメートル。
加治木町反土(かじきちょうたんど)
日木山川と網掛川の間の市街地の大半にあたる広い地域を占めていましたが、1957年(昭和32年)2月に仮屋町・新富町・本町・諏訪町・港町・朝日町を分割していて、残った反土はこれらを取り囲むようにひらがなの「つ」の字のような形になっています。大半は住宅地で、加治木中学校が所在します。九州自動車道の加治木ジャンクションもあり、加治木インターチェンジもかつてはこの地域であったのですが、隼人道路との接続の関係で東隣の日木山地区に移転しています。2010年10月1日現在2,202世帯5,311人が住みます。面積は1.43 平方キロメートル。
加治木町仮屋町(かじきちょうかりやまち)
JR日豊本線より北側の市街地北部の地域で、加治木高校や柁城小学校、家庭裁判所の加治木支部などがある官公庁の中心地帯です。島津義弘が一時期館を構えていました。また加治木島津氏の子孫や家臣団が住んでいる地区で、数多くの文化財があり、古くからの住宅などが多いです。2010年10月1日現在262世帯599人が住みます。面積は0.17 平方キロメートル。
加治木町新富町(かじきちょうしんとみまち)
仮屋町の東側、日豊本線の北側にある小さな地域で、加治木工業高校があります2010年10月1日現在176世帯413人が住みます。面積は0.10 平方キロメートル。
加治木町諏訪町(かじきちょうすわまち)
新富町の南側、朝日町の北側にあり、北側に加治木駅があります官公庁と住宅が混在した地域となっています。加治木電話局、加治木労働基準監督署、県合同庁舎、加治木税務署などが所在します。2010年10月1日現在227世帯425人が住みます。面積は0.10 平方キロメートル。
加治木町本町(かじきちょうもとまち)
加治木町の市街地中心部にあり、加治木町役場もこの地域にありました。商店街があり地域の商業の中心的な地域でもあります。2010年10月1日現在270世帯558人が住みます。面積は0.13 平方キロメートル。
加治木町朝日町(かじきちょうあさひまち)
市街地の南東側にあり、住宅が広がっています。国道10号が東西に通り、浄土真宗の性応寺があります2010年10月1日現在272世帯583人が住みます。面積は0.10 平方キロメートル。
加治木町港町(かじきちょうみなとまち)
加治木町市街地南西側にあり、名前の通り加治木港がありますこの港の周辺は工業地域となっています。また姶良警察署が所在しています。2010年10月1日現在166世帯323人が住みます。面積は0.16 平方キロメートル。
気候
年間平均気温は約17度、年間降水量は約2,200 mm程度で、降水量の大半が6月から9月に集中しています。夏から秋に掛けて台風が襲来することが多いです。また、市の南20 kmほどのところに桜島があり、火山活動時に北向きの風が吹くと火山灰が降ることがあります鹿児島県本土の他の市町村と同様に、天気予報で報じられる桜島上空の風向き予測は大きな関心事です。
鹿児島県森林技術総合センター(蒲生町上久徳)で2008年に観測した気象データ
月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 |
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平均気温(℃) | 5.7 | 8.1 | 9.0 | 14.0 | 19.4 | 24.4 | 29.0 | 29.1 | 25.7 | 21.2 | 13.7 | 8.3 |
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降水量(mm) | 115.0 | 183.5 | 145.5 | 263.5 | 209.0 | 427.0 | 460.0 | 222.5 | 133.5 | - | 107.5 | 58.5 |
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歴史
先史時代
姶良市では、旧石器時代の遺跡は蒲生町内に大原遺跡や竹牟礼遺跡などが見られりますが、姶良町や加治木町内では確認されていません。縄文時代の遺跡は、縄文海進により低地の大部分は海の中であったため台地の上や微高地に集中しています。三代寺遺跡・日木山遺跡・干迫遺跡・鍋谷遺跡・鍋倉遺跡・宮下遺跡などがあります弥生時代以降になると低地にも遺跡が出現します。
律令制度の確立と崩壊
713年(和銅6年)4月、日向国の一部を割いて大隅国が設置されました。朝廷による支配に対して隼人族は抵抗したため、豊前国から住民を移住させ、桑原郡を建てた。これが現在の姶良郡にほぼ相当します。和名類聚抄によれば、移住させた先として大分(おほきた)・豊国(とよくに)・答西(てふさ)という地名があったとされ、このうち大分は北山、豊国は豊留、答西は帖佐に比定する説があります一方、大分を蒲生町北とする説もあります。
和銅年間には、福岡志賀島から鈴木三郎政氏、四郎政良の兄弟が摂津国の住吉明神(住吉大社)を勧請してこの地にやってきて、住吉地区に神社を築いました。現在でもその子孫とされる人が居住していて、また住吉池という名前の由来でもあります。弟の政良は山田地区の開拓を行い、黒島神社を築いています。
大隅国の国分寺に使われました瓦は、船津にある宮田ヶ岡遺跡の窯跡のものと特徴が一致していて、ここで焼かれたものであると考えられています。
日本後紀によれば、古代の駅伝制において大隅国蒲生駅と薩摩国田尻駅の間が長すぎるために804年(延暦23年)3月に薩摩国櫟野村に新たな駅を設けたという記述があり、これが「蒲生」という言葉が文献に現れる最初です。この蒲生駅は、現在の蒲生町下久徳付近にあったと比定されています。大隅国の国府があった国分付近と薩摩国の国府があった川内付近を結ぶ経路上の拠点であったと見られています。
薩摩国・大隅国はもともと人口が少なく、田畑も少なかったことから開墾を奨励するために班田収授法の適用が遅れていましたが、800年(延暦19年)になってようやく施行されました。しかし次第に律令制は崩壊に向かい、貴族や寺社による私有地化が進んでいったのです。
豪族の割拠
この頃、加治木地方を郡司として支配していたのは、後漢の霊帝が先祖だとされる大蔵氏一族でありました。魏に追われて朝鮮半島に逃れた霊帝の孫孝延王の子孫が来日して帰化し、播磨国大蔵谷を領地としたことから大蔵氏を名乗るようになったとされています。大蔵氏の一族は940年(天慶3年)頃、藤原純友の乱(承平天慶の乱)の鎮圧に関連して九州地方各地に下向したとされています。加治木の大蔵氏もこのときに下向したのではないかと考えられていますが、確実な資料は残されていません。後に加治木氏を名乗るようになり長期に渡って加治木を支配しました。当初は日木山(古代の地名では肥喜山)付近を拠点としていましたが、後に加治木城を築いて本拠としました。
もともと、国 - 郡 - 郷の三層構造の郡郷制を採っていましたが、平安末期になるとこれに改変が行われ、郡・郷・院がそれぞれ対等な形で国に属するようになっていました。姶良市にあたる地域では、蒲生院・帖佐郡・加治木郷となっていたとされています。このうち帖佐郡が後の姶良町にほぼ相当します。
宇佐八幡宮の留守職であった藤原教清が宇佐八幡大宮司の娘との間に儲けた息子藤原舜清は、1120年(保安元年)に大隅国の垂水へ下ってきて、続いて1123年(保安4年)正月に蒲生院に入ってこの地域の総領職となりました。そして宇佐八幡宮を勧請して蒲生八幡神社を創建しました。以後、舜清とその子孫は蒲生氏と称して、蒲生城を中心としてこの地域を支配するようになりました。
1135年(保延元年)2月1日の「宮永社役支配状」に「加治木郷」の名前が出たのが加治木という地名の初見とされています。この頃帖佐郡は藤原忠実により1136年(保延2年)、大隅正八幡宮(鹿児島神宮)へ寄進されました。大隅国府でこうした税を収納する職を帖佐職と呼んだことが、帖佐という地名のおこりという説がありますしかし、古代の答西(たふせ)という名前がなまったという説もあります。
この地域の土地は、平安末期になると次々に大隅正八幡宮へ寄進されました。大隅国においては、島津荘に代表されるように半不輸地ですが領主の権限が強く、国衙の支配が及ばない寄郡(よせごおり)と呼ばれる荘園が広がっていたため、宗教的な権威に頼ってでも支配地を確保するために大隅正八幡宮への寄進が進められたものと考えられています。正八幡宮領では、官物は国衙へ、雑役は正八幡宮へ納められました。
鎌倉幕府は、文永の役を受けて博多湾周辺などに防備のための元寇防塁を整備しました。この際に各地に防塁建造作業の割当を行っていて、このうち大隅国に対して割り当てられた分については1276年(建治2年)の「大隅国在庁石築地役配符」という文書に詳しい記録が残されていて、その当時の大隅国の様子を知る手がかりとなっています。この文書によれば、現在の姶良市のあたりは蒲生院・帖佐郷・加治木郷に分かれていたものとされています。帖佐郷は姶良町に相当しますが、鍋倉地区は加治木郷に、脇元地区は蒲生院に属していたとされています。
1282年(弘安5年)、山城国石清水八幡宮から平山了清が下ってきて、大隅正八幡宮領の帖佐郷を治めることになりました。了清は、姶良町の海岸部である松原地区(現在の大字では東餅田)に一旦上陸し、その後別府川を遡って船津で船を係留して一晩を明かし、翌朝東側の三拾町に上陸したという故事があります大隅正八幡に対して新正八幡と称する神社を山の上に作り、また平山城を造営して居城としました。この新正八幡宮は現在も存在しておりです(現八幡神社)、社殿の前には了清が植えたといわれる樹齢700年あまりの大銀杏があります平山氏はその後帖佐郷各所に城を築いて一族で支配を行ったのです。こうして、蒲生院は蒲生氏、帖佐郷は平山氏、加治木郷は加治木氏という豪族がそれぞれ治める土地となりました。
南北朝の争乱と豪族の勢力争い
南北朝時代から室町時代にかけては、この地域の各豪族の間で争いが繰り返されました。足利尊氏は多々良浜の戦いに勝利すると、九州に押さえを残して上京し中央で北朝を樹立しました。多々良浜の戦い後、足利尊氏は南九州方面の制圧を進めるために、畠山直顕や島津貞久を南九州へ派遣しました。そして南朝方の勢力と戦ったのですが、1341年(北朝 暦応4年/南朝 興国2年、以下併記の際は北朝年号を先に記す)頃には南朝方の懐良親王が薩摩に入るなどして南朝の勢力が依然として強かったのです。さらに観応の擾乱で足利尊氏の弟足利直義と執事高師直が対立し、直義派の足利直冬が九州へ下向したために九州は北朝方(武家方)・南朝方(宮方)・直冬方の三つ巴の争いとなりました。薩摩・大隅では多くの地元豪族は南朝方で、島津貞久は北朝方、畠山直顕は直冬方でありました。また、蒲生氏は当初畠山直顕の配下であったのですが、後に南朝方となりました。平山氏はこの時期の動静がはっきりしていませんが、北朝元号を用いた文書を残していることなどから北朝方であったと推測されています。
島津と畠山の間では、当初は直冬方の畠山直顕の勢力が強く、島津貞久の跡を継いだ島津氏久は苦戦していました。中央からの来援を請うていましたが、幕府の余裕がなく、やむを得ず島津氏は1356年(延文元年/正平11年)10月に南朝方の三条泰季に降り地元の南朝勢力の支援を受けて畠山直顕に対抗することにしました。この年10月25日に畠山方の加治木岩屋城攻撃が行われ、翌年1月21日・25日にも戦いが行われました。さらに1357年(延文2年/正平12年)2月には島津氏久が帖佐萩峰城で野元秀安を攻撃し、南朝方の三条泰季もまた3月20日には加治木浜の戦いで畠山直顕配下と交戦しました。また肥後国の南朝勢力である菊池氏が日向国にいた畠山直顕を攻撃したこともあって畠山直顕の勢力は衰退しました。その後、再度島津氏久は北朝方に戻ったのです。
1411年(応永18年)8月にこの頃の島津の当主、島津元久が死去すると、一族の伊集院頼久は自分の子供を次の当主にしようとたくらみ、元久の弟島津久豊と争いになりました。蒲生氏は島津氏に従ったのですが、平山氏と加治木氏は伊集院氏を支持し、一時的に島津氏と争うようになりました。しかし伊集院氏が打ち破られるとともに平山氏・加治木氏も島津氏と和解し、再度島津氏の配下となりました。その後、伊集院氏の残党が1436年(永享8年)に平山城に攻め込んできましたが、平山氏はこれを打ち破ったのです。
その後島津氏と平山氏の関係は、理由は不明ながら再度悪化し、1458年(長禄2年)、島津季久が平山氏に代わって帖佐郷を支配するようになり、瓜生野城(後に建昌城と呼ばれるようになる)を築いました。1459年(長禄3年)には平山氏は島津忠国に敗れて指宿に移されています。
島津季久は、1459年(長禄3年)に蒲生を攻撃し、まだ若かった蒲生氏15代当主蒲生宣清はこれに対抗することができずに、島津忠国の指示を受けて給黎に移ることになりました。その後は島津季久の子島津忠廉が蒲生を支配していました。蒲生宣清は終始島津忠昌の配下として行動し、島津季久が島津忠昌と対立するようになると季久方の揖宿城を攻撃するなどし、ついに1495年(明応4年)閏2月に旧領の蒲生を与えられて復帰することができました。
季久の子島津守興(起宗和尚)は、薬師如来を信奉し、この頃越後国米山薬師を参詣した時に得た薬師如来像を持ち帰り、平山城南端の山が米山に似ていることからこの地に堂を建てて安置しました。これが帖佐の米山薬師の由来です。
1495年(明応4年)加治木の加治木久平が平山城を襲うが、島津方の守備が堅く撃退されました。この時に守備していた川上忠直は戦功により帖佐の地頭を任じられ、領地の名から辺川忠直と改名しました。翌1496年(明応5年)島津忠昌は加治木久平を平定し、加治木氏は阿多に移されて加治木氏の加治木支配が終焉しました。加治木氏の没落後、島津忠昌は家臣の伊地知重貞を加治木地頭に任じました。
島津氏の支配の確立
その後、島津氏第14代当主島津忠兼(後の島津勝久)の時代には領内が混乱し、島津実久が後継を狙うなどしたため、忠兼は智将とされた島津忠良(日新)に領地を与えて力を借りることにしました。そして忠良の子を忠兼が養子に迎えて第15代当主島津貴久としました。1526年(大永6年)、先に島津宗家に協力して加治木氏の叛を収めることに貢献した辺川忠直が今度は島津実久に協力して忠兼に対して反旗を翻しました。忠良はこの年の12月7日に帖佐の平山城を攻撃し、辺川忠直を平定しました。この時に実久側から辺川氏に援軍として派遣されていた島津安久は戦死しました。後の参議院議員迫水久常はこの安久の直系の子孫に当たります。平定後、平山城には島津昌久が配置され帖佐地頭となりました。
しかし翌1527年(大永7年)5月、加治木地頭の伊地知重貞と帖佐地頭島津昌久は共に島津実久側について島津忠良・貴久に背いました。島津忠良の軍勢がこれを討伐したために、伊地知氏の加治木支配も終焉しました。その後、帖佐には伊地知重辰を、また山田城には川越重博を配しました。
一旦島津貴久に守護職を譲った島津勝久が再び国政を執ろうとしたことなどから混乱が生じ、この隙に乗じて1529年(享禄2年)1月22日、祁答院氏2代の祁答院重武は帖佐に攻め入り平山城と山田城を陥落させました。この後しばらく帖佐は祁答院氏の領地となりました。
また加治木では伊地知重貞の反乱後の混乱に乗じて、溝辺郷の肝付兼演が加治木を入手し、1534年(天文3年)にここを支配しました。これに対して島津忠良と貴久は1542年(天文11年)に加治木を再度攻撃しましたが、この時は蒲生・帖佐からの兵が肝付氏を支援したため攻略できなかったのです。一度は和解したものの、1549年(天文18年)になり帖佐の祁答院良重、蒲生の蒲生範清らと謀って再度叛旗を翻し、島津方の吉田城を攻撃しようとしました。島津貴久は伊集院忠朗に命じて肝付氏を攻撃させ、11月に降伏させました。翌年4月に改めて加治木は肝付氏に与えられ、以後1595年(文禄4年)10月26日に喜入に移るまで、4代68年に渡り肝付氏が加治木を治め、一貫して島津氏の配下として行動しました。
1554年(天文23年)、島津方となった肝付氏と蒲生氏の対立から、祁答院良重、入来重嗣、蒲生範清が島津氏に対して背いました。蒲生氏は援軍の菱刈氏・渋谷氏などとともに加治木の肝付氏を攻撃し、これに対して島津貴久が救援を送ったのです。蒲生から加治木に掛けての各地で戦いが繰り広げられた後、9月になって岩剣城の戦いが起こったのです。島津氏が日本で初めて鉄砲を実戦で使用したと言われます(異説もある)。堅城であるため苦戦しましたが、10月3日になり陥落しました。
さらに1555年(天文24年)肝付氏と共に帖佐平山城の祁答院良重を攻撃して4月2日祁答院へ敗走させました。その後鎌田政年が帖佐地頭として配され、同年7月27日に祁答院氏が帖佐を奪還しようとして来襲した際には援軍を得ながら祁答院氏を大破しました。1556年(弘治2年)には松坂城を3月と10月の2回に渡る攻撃で陥落させて、祁答院氏からの蒲生氏への救援をほぼ絶ったのです。そして蒲生氏の援軍に来ていた菱刈氏を1557年(弘治3年)2月から3月に掛けての戦闘で撃破し、菱刈陣を陥落させたことで蒲生城の包囲を完成させました。援護の得られなくなった蒲生範清は、同年4月20日ついに降伏し、祁答院方面へ退去していったのです。こうして蒲生氏は平安以来の領地を失い、この地域の島津氏の支配がほぼ確立しました。
豊臣秀吉の九州征伐の結果、島津氏は豊臣氏に従うことになりました。この際加治木郷約1万石は秀吉の蔵入地とされ、石田三成がその代官となりました。ただしこの頃の加治木郷には後の隼人町や溝辺町(いずれも霧島市の一部)となる嘉例川(当時は佳例川)、竹子、溝辺、崎森などが含まれています。これにより肝付氏は喜入に移ったのです。太閤検地においては帖佐郷は7864石あまりの土地が記録されています。
蒲生氏の平定後、帖佐郷の山田地区などを治めていた梅北国兼は、梅北一揆を起こして豊臣秀吉に対して背いました。これはまもなく鎮圧され、国兼は殺されました。この件を7人の家来が山田地区にいた家族に急報し、その後木津志と北山の間の七ツ島と呼ばれる場所で主人に殉じて切腹したという伝説が残されています。ただし、梅北一揆の時期には国兼は既に湯之尾の地頭へ転出していたため、この話は事実ではないとする見方もあります。
文禄の役から帰国した島津義弘は、1595年(文禄4年)、鍋倉地区に新築した御屋地(おやち)と呼ばれる館に入り居住しました。これ以来この地域は帖佐郷の中心として発展しました。義弘が朝鮮半島から連れ帰った陶工により、古帖佐焼などの窯が開かれています。後に加治木に移り、現代に伝わる龍門司焼の元祖ともなりました。また出兵の功績により1599年(慶長4年)1月9日、豊臣氏の直轄領が島津氏に返還され、加治木郷もまた島津の領土に復しました。
薩摩藩による統治
1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いにおいて島津義弘は敵中突破の退却を行い、帖佐郷に引き上げてきました。その後しばらくの間、徳川氏に対する抗戦のため建昌城や蒲生城などの修築が行われています。義弘は桜島にて一時謹慎しますが、隠居して再び帖佐に住んだのです。1606年(慶長11年)、義弘は平松館(現在の重富小学校の位置)に館を移し、さらに1607年(慶長12年)、加治木館(現在の加治木高校の位置)に館を移しました。その後は義弘は領内の産業と人材の育成に努めました。天正年間から寛永年間までは現在の加治木町本町にあった銭屋町で加治木銭を鋳造させて広く流通させました。また朝鮮出兵時に連れ帰ってきた職人により製陶業や養蜂業などを興しました。網掛川の上流の滝から分水して加治木館に水を引き、これを周辺の田畑にも分けるなどして農業の振興にも努めました。網掛川に堤防を築いて治水にも努めています。また、加治木くも合戦は義弘にまつわる故事が残されています。義弘は1619年(元和5年)7月21日に加治木館で亡くなりました。
江戸時代の薩摩藩では、外城制と呼ばれる領内支配体制が敷かれ、加治木、重富、帖佐、山田、蒲生の外城(1784年(天明4年)4月以降は郷)が置かれました。このうち加治木と重富が一門家の私領で、他は直轄の地頭所が置かれていました。それぞれに麓と呼ばれる支配階層の武士が住む集落が作られ、そこから領民の過酷な支配が行われました。これらの郷の下にさらに村が置かれて、各村には庄屋が配置され、さらに名主がこれを助けていました。
加治木郷は高井田・日木山・小山田・反土・木田・西別府の6村で構成されていて、後に高井田は木田に統合されました。帖佐郷は深水・三十町・永瀬・中津野・鍋倉・豊留・増田・住吉・西餅田・東餅田・寺師の11村で、山田郷は木津志・上名・下名・大山・北山・辺川の6村で、重富郷は平松・脇元・船津・春花・触田の5村で構成されていました。ただし触田村については吉田郷から編入した経緯から薩摩国鹿児島郡の一部とも分類されています。蒲生では、当初軍事的に重要とされた北村と松坂にも独立した地頭が置かれましたが、初代のみで2代以降は置かれなかったのです。蒲生郷は久末・西浦・白男・米丸・上久徳・下久徳・漆・北の8村で構成されていました。
また薩摩藩では、麓の周辺などで商業を行う集落ができているところを当初岡町、後に野町と呼び、また漁業を担う集落を浦浜、半農半漁の集落を半浦と称していました。山田郷の野町は西田野町で下名の集落から山田川を渡って南側にありました。帖佐郷の野町は納屋町で、鍋倉地区の別府川沿いにありました。帖佐の野町は薩摩藩では国分の野町に続いて2番目の規模であったとされ、蒲生の野町は8番目とされています。蒲生の野町は蒲生麓の外れにありました。浦浜としては、帖佐郷の松原浦(東餅田の海岸付近)、重富郷の脇元浦、半浦としては納屋町と十日町(東餅田の別府川沿い)がありました。
1625年(寛永2年)7月15日、島津家久(義弘の子、第18代太守)の第3子、島津忠朗は加治木に入り、島津氏の一族中最も家格の高い一門家である加治木島津家の初代となりました。1645年(正保2年)、宮之城領主で薩摩藩の家老を兼任した島津久通が殖産興業政策を進め、蒲生地区で蒲生杉と蒲生和紙の生産を進めさせました。1664年(寛文4年)、触田に井堰が造られて、現在も使用されている用水路、中溝が建設されています。この当時の触田はまだ吉田郷でありました。
1737年(元文2年)3月27日、島津忠紀が越前島津氏を再興し、その領地とするために1739年(元文4年)帖佐郷より分割して重富郷が成立しました。重富郷成立以前の時期に、帖佐郷から既に山田郷が分割されていましたが、いつ頃どのような経緯で分割されたかははっきりしていません。帖佐郷のうち平松村、脇元村、船津村、春花(はるげ)村、吉田郷のうち東佐多浦村の一部(触田村として分離)が重富郷となりました。また帖佐郷を補うために山田郷から寺師村が編入され、これを補うために蒲生郷から木津志村が山田郷に編入されて、姶良町合併前の帖佐・重富・山田の町村の形がほぼ成立しました。重富の名は、越前島津氏初代の島津忠綱の領地であった越前国重留に由来し、後に重富に改めたとされりますが、現在の福井県にはそのような地名はないとされています。この重富島津家も一門家とされました。
1752年(宝暦2年)、水口ゆきえが中津野用水路を完成させましたが、その知恵を恐れて暗殺されました。加治木島津家第6代の島津久徴は、1775年(安永4年)長崎から学者の伊藤世粛を招聘し、1784年(天明4年)に加治木に郷黌毓英館(いくえいかん)という学校を設立しました。1810年(文化7年)と1812年(文化9年)の2回にわたり、伊能忠敬によりこの地域の測量が行われています。
近代化の進展
明治になると、それまでの各郷村を治めていた統治形態が変更となり、しばらくの間はめまぐるしく制度が変わっていくことになりました。1869年(明治2年)6月に軍制が敷かれ、各村に常備隊が置かれることになりました。この際に各郷に小隊が置かれました。1870年(明治3年)加治木に郡治所が置かれ、姶羅・桑原・西囎唹の三郡を統括することになりました。これは現在の加治木簡易裁判所・加治木区検察庁の建っている場所に置かれました。
1871年(明治4年)7月14日、廃藩置県が行われ、加治木・帖佐・山田・重富・蒲生の5郷は一旦鹿児島県に属しましたが、11月14日に領域が分割されて、これらの地域は都城県となりました。1872年(明治5年)には大区・小区が置かれて、大区には区長、小区には戸長を置いました。戸長役場がそれぞれに置かれて、壬申戸籍の作成や地租改正などの作業に当たったのです。1873年(明治6年)1月15日、都城県が廃止され鹿児島県に戻っています。同年、鹿児島県内6箇所に支庁が配置され、加治木は第一支庁となりました。姶良・曽於・伊佐の各郡と薩摩郡のうち黒木・大村・藺牟田、大島の十島村・三島村を範囲としていました。
1877年(明治10年)には大小区制となり、加治木は第59大区とされ、51区重富、52区帖佐、53区蒲生、54区山田、58区溝辺を含めて管轄することになりました。またこの年、西南戦争により鹿児島県庁が焼失したため、一時的に加治木に県庁が置かれています。1878年(明治11年)7月22日、大小区制が廃止されて郡・町村制に戻されました。
1877年(明治10年)の西南戦争に際してはこの地域も戦場となり、西郷軍が北部で戦っている間に本拠地鹿児島を攻撃しようとした政府軍が鹿児島方面の戦いを起こし、5月22日重富に政府軍が上陸しました。その後鹿児島の城山方面で西郷軍が敗れると、次に西郷軍が集結すると予想された都城方面を挟撃するためにこの地域に政府軍が派遣されました。これを迎撃するために西郷軍の鉄砲隊が帖佐の松原付近で戦闘を繰り広げた。後にこの部隊は撤収し、蒲生と吉田の境にある佐山越を守備しました。6月29日に政府軍との間で激しい戦闘が行われ、西郷軍は退却しました。その後、西郷軍主力は宮崎県北部での可愛岳の包囲を突破して鹿児島への帰還を行ったのです。この際、8月30日に山田に、8月31日に蒲生に宿泊して、翌9月1日に鹿児島へ入っています。
なお、桑原郡の西部は中世始めに帖佐郡として独立しましたが、近世始め頃から始羅(しら)郡の呼称が使われるようになり、これが律令の昔に設置された姶羅(あいら)郡(現在の鹿屋市付近)と混同されてこの地域が姶良郡と称されるようになりました。鹿屋市の合併前の町に吾平町(あいらちょう)という同じ読みの町があったのはこのためです。1871年(明治4年)11月4日の鹿児島県庁布告により正式に姶良郡となり、1896年(明治29年)に残りの桑原郡と西囎唹郡を合併して今の姶良郡が成立しました。1889年(明治22年)4月1日には町村制施行により、現在の市域に姶良郡加治木村・帖佐村・重富村・山田村・蒲生村が発足しています。
1901年(明治34年)、加治木村・帖佐村・重富村を通って鉄道が開通し、加治木駅と重富駅が設置されりますが、当初は駅間が短すぎるとの理由で帖佐駅は設置されなかったのです。帖佐村・山田村・蒲生村の住民からの請願により、1926年(大正15年)になって帖佐駅が開設されました。鉄道が開通すると、蒲生から重富駅や帖佐駅へ向かう道路が整備されるなど、陸上交通網の整備が進んだのです。一方でそれまで重富と鹿児島の間の難所白銀坂のために、姶良郡と鹿児島方面の交通は主に鹿児島湾上の船に頼っていて、その港として繁栄していた加治木は鉄道開通により打撃を受けることになりました。
加治木では養蚕と製糸業の奨励が行われ、1897年(明治30年)には現在の加治木中学校の位置に鹿児島授産場の分場が設置され、1906年(明治39年)には蒸気製糸場の「桜島館」ができました。1931年(昭和6年)には郡是製糸工場が発足しましたが、大戦に際して軍需用に転用されました。また藩政末期頃から加治木・帖佐において塩田を建設する計画があり、実際に建設されましたが加治木では台風の影響などにより短期間で放棄され、帖佐のものが松原塩田として発展し、帖佐村の財政を支えました。また帖佐村では木炭やかます(わらを編んで作った袋)が生産されて鹿児島県において大きなシェアを占めていました。蒲生においては、新しい時代の殖産興業や教育の促進、公共事業などに役立てるための財政基盤を固める目的で、士族が官有林などの払い下げを受けて資産の共有組織「士族共有」を結成していましたが、1920年(大正9年)6月30日に法人化して社団法人蒲生士族共有社となりました。蒲生士族共有社では蒲生出身者の教育費の支援を行うほか、蒲生での道路工事など公共事業への支援を行ったのです。
1912年(明治45年)6月1日加治木村が鹿児島県内で最初の町制を施行して加治木町となりました。続いて1928年(昭和3年)11月1日に蒲生村が町制を施行して蒲生町となりました。1942年(昭和17年)4月1日帖佐村が町制を施行して帖佐町となりました。
第二次世界大戦の被害と復旧
第二次世界大戦に際しては、加治木町が空襲で大きな被害を受けました。加治木町への空襲は2回あり、1945年(昭和20年)4月26日の1回目の空襲では延べ5万坪(約16.5 ヘクタール)が焼失し、死者17人を出しました。8月11日の2回目の空襲では、18機の航空機により焼夷弾の投下と機銃掃射が行われ、延べ19万7000坪(約65 ヘクタール)が焼失し死者26人を出しました。この中には旧制加治木中学校(現鹿児島県立加治木高等学校)の生徒14人が含まれています。これらの空襲により、加治木市街地の広い面積が焼失し、主要な官公庁もほぼ焼失しました。加治木町役場も焼失したことから、大戦前の加治木町の公的記録はかなりの欠損がありますこのほか姶良町方面では7月27日山田橋付近、8月5日松原、8月6日脇元と相次いでアメリカ海軍艦載機に空襲を受けて多数の建物が焼失、死傷者が出た。
戦争が終結すると、加治木では1945年(昭和20年)の10月から12月頃まで、外地からの引揚者の受け入れを行ったのです。これは当初受け入れ地として想定された鹿児島がより酷く戦災を受けていて受け入れ能力がないと判断されたため、代替地として用いられたものです。約2万6700人が加治木港に上陸しました。また空襲で大きな被害を受けた加治木は戦災都市に指定され、焼け跡の整理と市街地の整備が進められて、こんにちに見られるような街区がおおむねこの時期に形成されました。蒲生においては蒲生士族共有社が米軍により実情を調査されるなどし、既に士族でこのような事業を独占している時代ではないとの判断もあって、1946年(昭和21年)6月12日の総会で解散を決議し、共有社の資産をもとに新たに12月25日に蒲生殖産興業株式会社の設立総会が行われました。農地改革の関係から耕地についてはおおむね小作人に対して譲渡されましたが、山林については引き続き所有し、これから上がる収益で配当を行うとともに公共事業への貢献を行っています。
大戦後の発展
第二次世界大戦後まもなく、行政改革のための町村合併の動きが始まったのです。加治木・帖佐・重富・山田・蒲生の3町2村合併での姶良郡西部市の構想があったのですが実現しなかったのです。1947年(昭和22年)8月1日にまず溝辺村(後に溝辺町を経て霧島市の一部)崎森の長谷集落が加治木町に編入されました。また同年、加治木町内に存在する山田村の飛地であった辺川地区から、不便を解消するために加治木町へ編入して欲しいという要望が出され、両町村の協議を経て1952年(昭和27年)10月10日に実施されました。このとき同時に溝辺村崎森の迫集落も加治木町へ編入されました。山田村の一部であった木津志の柊野(くきの)地区は、歴史的に蒲生町とのつながりが深かったため蒲生町への編入希望が出され、1955年(昭和30年)1月1日の姶良町成立と同時に蒲生町に編入されました。重富村は鹿児島市との合併を考えていましたが、財政問題などを理由に鹿児島市に断られ、1955年1月1日に帖佐町・重富村・山田村の1町2村による対等合併をすることになりました。新町名としては錦江町・若草町・姶良町・西姶良町・別府川町などが提案され、姶良町が選択されています。加治木町では、溝辺村と隼人町の小浜集落を編入合併することで市制を施行し、さらに周辺町村の合併を進めていこうとする運動を行ったのですが実現しなかったのです。
姶良町の成立後しばらくの間は財政が苦しく、議会定員を法定より減らし、町職員の退職不補充などにより財政再建に努めました。当初は旧帖佐町役場を庁舎としていましたが、国道や帖佐駅に近い南部平野地帯に新しい庁舎を建設することになり、1960年(昭和35年)10月20日に着工、翌1961年(昭和36年)10月21日から事務が開始され、12月9日に新庁舎落成式典を開催しましたが、式典では参加していた海上自衛隊の航空機が墜落事故を起こしています。総工費は2851万円でありました。
蒲生町においては、大戦後しばらくの間は物不足であったこともあって、伝統の蒲生和紙の生産が引揚者などを中心に盛んとなりました。しかし機械で生産された洋紙が普及するにつれて打撃を受け、一部の特殊用紙の生産に特化していくことになりました。また姶良町では従来の特産であった木炭、かますが、ガスの普及やビニール袋の登場などにより廃れてきたため、新しく産業を振興すべく1960年(昭和35年)から「20万羽集団養鶏運動」が開始され、鶏卵を出荷するようになりました。一時期はかなり広く実施されたものの、零細農家は競争に負けて撤退し、現在は少数の大規模業者が集中して養鶏を行っています。また旧帖佐町の財政を支えていた帖佐松原塩田は、1951年(昭和26年)にルース台風の直撃を受けて破壊され、放棄されました。
1973年(昭和48年)12月13日九州自動車道が開通。1984年(昭和59年)5月19日第35回全国植樹祭が開かれ昭和天皇を迎えてお手まき行事が行われ、その敷地は県民の森という公園施設になりました。1986年(昭和61年)に錦江駅が、1988年(昭和63年)姶良駅が相次いで開業し、また1988年には大規模ショッピングセンターのサンシティ・リブレ(現在のイオン姶良店)も開業しました。1993年(平成5年)には鹿児島県内全体が平成5年8月豪雨に見舞われ、国道10号や九州自動車道がしばらく不通になるなどの大きな被害を受けました。
蒲生町では、主力産業であった農業や林業の不振や交通網の問題などから、大戦後は人口の減少が続いていて、1950年(昭和25年)に15,887人であったのが1965年(昭和40年)には11,089人、1985年(昭和60年)には8,288人、2000年(平成12年)には7,339人とほぼ半減するに至ったのです。一方、加治木町では1950年に20,277人、1965年に19,133人、1985年に23,264人、2000年に23,332人とあまり大きな変化をしていません。これに対して姶良町は、1950年に29,088人であったのが1965年に22,669人と一旦減少しましたが、その後南部平野地帯を中心に鹿児島市のベッドタウンとしての発展が始まり、1985年には35,278人、2000年には42,969人と急速な増加を続けています。その姶良町も、北部山間地帯では過疎が進展していて、姶良市の総体としては山間部の農林業が衰退して、平野部の住宅地としての発展が進んでいる状況にあります。
姶良市の成立
平成の大合併に際しては、加治木町・姶良町・蒲生町の3町合併が検討されました。2003年4月に当初の合併協議会が設置されましたが、住民投票の不成立などにより2005年に一旦合併協議会が解散されました。その後2007年になり再度合併協議が始まり、新市名を姶良市とすることや新庁舎を現行の姶良町役場に置くことなどでは合意が成立しましたが、市議会の定員の問題などで合意ができず、2008年10月に再度決裂しました。その後も合併を目指す住民からの要望が継続され、2009年に3度目となる協議でようやく合意に達し、2010年3月に3町で合併し新市名を姶良市とすることが内定しました。
新市の名称については、旧3町の名前をいずれも使わないという観点から、当初は錦江市や南九州市なども検討されました。しかし、鹿児島県内の他の合併例で郡の名前を採用したところが多いこと(日置市・伊佐市・曽於市)、姶良カルデラが火山学上世界的に有名であること、姶良郡の設置以来120年あまりに渡ってこの地域の名称として使われてきたことなどから、姶良市とすることが選択されました。2009年(平成21年)6月6日に伊藤祐一郎鹿児島県知事の立会の下で、姶良町中央公民館において3町の町長が合併協定書に署名し、また、6月23日に3町の町議会において合併関連議案が可決されて、正式に姶良市の発足が決定しました。
行政
合併もとの3町の役場それぞれに総合的な機能を持たせる総合支所方式を採用し、宮島町に位置する旧姶良町役場に本庁を置いています。また旧加治木町の域内に教育委員会を、旧蒲生町の域内に農業委員会を置いています。農業委員会は定数20で合併後1年間の在任特例を適用して、選挙では各町ごとに選挙区を設置して、定数は姶良8、加治木・蒲生6となります。
市長
市長 笹山義弘(2010年4月25日 -、初代、2期目)
初代の姶良市長選挙は、2010年4月18日に告示され、25日に投票が行われました。旧加治木町長の笹山義弘と旧姶良町長の城光寺俊和の2人の争いとなり、笹山が当選しました。旧姶良町は姶良市の人口の過半を占めりますが、その旧姶良町地区でも笹山が支持を集めたとされています。それまでの市長職務執行者は、旧蒲生町長の厚地和幸が務めました。
合併から4年が経過して2014年(平成26年)4月20日に行われました2回目の姶良市長選挙では、現職の笹山と新人の湯元敏浩が立候補し、笹山が当選しました。
議会
合併から4年が経過して2014年(平成26年)4月20日に行われました2回目の姶良市議会議員選挙では、定数24に対して27人が立候補し、当選者の党派の内訳は公明党2人、共産党2人、無所属20人でありました。1回目の市議会議員選挙に比べて定数は6削減されました。
合併後最初の市議会の時点では定数30で、合併後最初の選挙のみ旧町別の選挙区を設置しました。各町の定数は、旧姶良町が16、旧加治木町が9、旧蒲生町が5で、この比率は有権者数の比率に対して人口の少ない自治体に厚く配分されたものとなっています。議会の選挙も市長選挙に合わせて、2010年4月18日告示、25日投票で実施されました。合計30人の定員に対して35人が立候補し、多くは旧町議でありました。当選者の党派は無所属25人、公明2人、共産2人、社民1人でありました。
国や県の機関
加治木町は古くから姶良郡の中心地で、姶良市内にある国や県の機関は加治木町の中心部に集中しています。加治木町諏訪町に鹿児島県姶良・伊佐地域振興局(総務企画部・農林水産部・建設部)・加治木税務署・加治木年金事務所、加治木町仮屋町に鹿児島地方裁判所加治木支部・鹿児島家庭裁判所加治木支部・加治木簡易裁判所・鹿児島地方検察庁加治木支部・加治木区検察庁・鹿児島地方法務局加治木支局、加治木町新富町に加治木労働基準監督署、加治木町木田に姶良家畜保健衛生所、加治木町日木山に国土交通省鹿児島国道工事事務所加治木維持出張所が所在しています。
かつては加治木町諏訪町に加治木保健所が所在していましたが、2005年(平成17年)4月1日から隼人保健所と統合され姶良保健所として霧島市隼人町松永に所在しています。
蒲生町上久徳には鹿児島県森林技術総合センターが所在します。鹿児島県森林技術総合センターウェブサイト。平松には、1992年(平成4年)4月に鹿児島県立埋蔵文化財センターが開所され、鹿児島県内の考古資料の展示や発掘された文化財の整理・復元などの作業が行われていましたが、2002年(平成14年)10月に国分市(後の霧島市)上之段の上野原遺跡付近に移転しました。平松の埋蔵文化財センターの建物はその後改修工事が行われて、2004年(平成16年)4月27日に鹿児島県防災研修センターとして開所している
市のシンボル
姶良市章
東京都千代田区の男性が応募したものが選ばれました。カタカナの「ア」を羽ばたく鳥のイメージで図案化し、緑色系の2色で塗り分けたものです。
市の木、市の花は、合併協議会において新市発足後に決定するとされていました。市木・市花選考委員会で検討した結果、市の木としてくすのき、市の花としてやまざくらとつつじを選定し、姶良市誕生一周年記念式典の会場で発表されました。
姉妹都市
鹿児島県日置市 - 日置市を構成した町の1つ伊集院町と旧加治木町が、島津義弘にまつわる歴史的なつながりなどから教育姉妹町の提携をしていたことから、2010年10月23日に日置市と姶良市の間で再度姉妹都市の盟約が結ばれました。
経済
第一次産業
2005年時点での統計によれば、農家の戸数は2,562戸、耕地面積は123,529 アールでありました。地域の農業の多くは水田稲作です。加治木町では温州みかんの生産を推進しています。また鹿児島市の近郊に位置することを利用して野菜を供給する事業も行っています。タバコの生産も盛んです。かつては養蚕が広く行われていましたが、2005年度までに鹿児島県内の養蚕業は全て終了しました。
畜産業では、卵の生産を目的とした養鶏が広く行われています。特に旧姶良町は昭和30年台以降20万羽集団養鶏運動を行い、「姶良鶏卵」の名で出荷が行われていました。しかし卵の価格低迷の影響により、少数の大規模事業者に集約されつつあります。加治木や蒲生の山間部の牧場を中心に、古くから馬の生産が盛んに行われてきた地域であったのですが、農業機械の導入などによって馬の需要は減少し、生産はほとんど見られなくなりました。和牛の生産や養豚が行われています。
姶良市・霧島市・姶良郡湧水町などの、元の姶良郡全ての地域はあいら農業協同組合(愛称 JAあいら)の管轄範囲となっています。JAあいらウェブサイト
漁業では、かつては鹿児島湾内一帯で真珠養殖の母貝となるアコヤ貝やアサクサノリの養殖が行われていました。これらは過剰生産の問題などによりほとんど見られなくなりました。代わって増加したのがハマチの養殖で、姶良市を含め鹿児島県内では広く行われ、日本では鹿児島県が養殖ハマチの生産量1位となっています。東餅田の海岸沿いの松原塩田跡地では、岩崎産業がクルマエビの養殖を行っています。網掛川はアユの名産地として知られています。姶良市の海面漁業は加治木港に事務所を置く錦海漁業協同組合がまとめています。また内水面漁業に関しては網掛川漁業協同組合・別府川漁業協同組合・思川漁業協同組合が存在します。漁港としては、加治木港の船溜のほかに、脇元に重富漁港があります
林業では、蒲生町の蒲生杉が知られています。1645年(正保2年)に、宮之城の領主で薩摩藩の家老を兼任していた島津久通が殖産興業政策の一環として、蒲生の地質が杉林の育成に適し、また川を利用した木材の輸送が便利なことから造林事業を開始しました。樹種は蒲生メアサ杉が多く、木目の緻密さと美しい光沢に定評がありますまた孟宗竹も植えられていて、早掘りタケノコが名産です。加治木町では古くから町有林が育成されていて、戦災に際してはここから産出した木材が官公庁の復旧に大いに貢献しました。姶良市は、霧島市に合併した旧溝辺町を含めて姶良西部森林組合の管轄範囲ですが、姶良東部・姶良北部・伊佐を含めた4組合で合併する協議が進められています。
第二次産業
2007年(平成19年)12月末現在の合併元3町の工業は、従業員4人以上の事業所が75箇所、従業員数2,079人、出荷額約354億2976万円でありました。
姶良市内における伝統的な製造業としては、龍門司焼の生産をする窯業があります島津義弘が朝鮮半島から連れ帰ってきた焼き物の技術者が始めたもので、加治木町小山田に窯元があります事業者は龍門司焼企業組合を結成しています。龍門司焼企業組合。2007年(平成19年)工業統計調査では、加治木町における工業製品出荷額の21.3?%を窯業が占めている状況にあります。
蒲生町では、蒲生杉の造林奨励を行ったのと同じく島津久通が郷士の副業として勧奨したことから蒲生和紙の生産が行われています。藩政時代は全て藩に収納することが義務付けられていました。明治以降は蒲生和紙組合を設立し、1941年(昭和16年)9月から蒲生製紙工業組合、1947年(昭和22年)3月蒲生和紙商工業協同組合となって、原材料の共同購入や資金の調達、技術の継承などを行っています。第二次世界大戦後しばらくの頃までは紙不足で、戦地からの復員者などにとって貴重な収入源となったのですが、機械製紙の技術が向上するにつれて実用的な紙としての需要は圧迫されるようになりました。現代においては数人のみが技術を継承していて、おもに障子用の紙など特殊な趣味用途の紙の生産が行われています。蒲生和紙工房。
姶良市内に事業所のある主な製造業
イケダパン重富工場(平松) - パンの製造、登記上の本社所在地は南さつま市ですが、実質的な本社機能はこちらにある キユーピータマゴ蒲生工場(蒲生町久末) - 鶏卵加工品の生産・販売 白金酒造(脇元) - 芋焼酎製造 さつま司酒造(加治木町諏訪町) - 芋焼酎製造 ケトラファイブ協同組合(蒲生町下久徳) - 竹炭ボード製造 三森産業(蒲生町下久徳) - 農業用ビニール製造 ダイワテック(蒲生町下久徳) - 農業用資材製造 インフラテック姶良工場(平松) - 土木・建築用コンクリート製品製造 木村ブロック工業(加治木町木田) - 土木・建築用コンクリート製品製造 九建殖産(蒲生町下久徳) - 建設資材製造 南洲石灰工業(加治木町港町) - 石灰製造 土佐屋生コンクリート加治木工場(加治木町反土) - セメント製造 大平産業(加治木町反土) - コンクリート製品製造 堀之内砿業(加治木町木田) - 砕石製造、湯湾岳を切り崩して生産している 高山産業(蒲生町北) - 電子部品製造 加治木産業本社(加治木町西別府)および姶良工場(平松) - 電子部品・機械装置製造 熊野製罐鹿児島工場(船津) - 製缶 蒲生精工(蒲生町北) - 金型製造 アイラメカトロニクス(三拾町) - 精密機械・金具製造 クイックNETシステム(加治木町木田) - 空気圧縮機・送風機などの製造 南東洋シヤッターおよび東洋シヤッター九州工場(蒲生町西浦) - シャッター製造 ランドアート(平松) - 測量器具・カヌー製造、元の南日本度器 ナノック(平松) - シーカヤック製造、ランドアートの関連会社 シーワイケイ鹿児島工場(蒲生町北) - 婦人用下着類製造
かつての産業
姶良市内での鉱業は、蒲生町漆に大良鉱山・漆鉱山・高嶺鉱山・仁田尾鉱山・上漆之鉱山、蒲生町西浦に松野鉱山などがかつて所在し、明治から昭和初期にかけて産金が行われていました。特に大良鉱山と漆鉱山は九州でも上位の金山となった時期があります木津志にも江戸時代頃から金山が存在していて、断続的に昭和頃まで生産が行われていましたが閉山となりました。重富には石川金山が所在していました。山田の飛野や蒲生の真黒・新留では江戸時代に砂鉄を採掘して製鉄を行っていました。これらの鉱業は既に行われていません。
鍋倉には江戸末期まで鋼山製鉄所という製鉄所があり、良質の銑鉄を供給していました。
藩政末期頃からこの地域の沿岸部では塩田の建設が検討され、実際に建設されたもののうち、東餅田の海岸付近にあたる松原塩田は第二次世界大戦後まで操業していました。当初は地元の郷友会の所有するものや帖佐村の所有するものなどがあったのですが、1914年(大正3年)1月12日の桜島の大噴火によって発生した津波により一旦は壊滅しました。その後村営事業として復旧工事が行われ、年間3,000 トンの塩の生産を行い、帖佐村(1942年から帖佐町)の財政を大きく支えました。しかし1951年(昭和26年)10月14日にルース台風が襲来して塩田が再度壊滅し、町議会によって放棄が決定されました。その後跡地には鹿児島県総合運転免許試験場や岩崎産業のクルマエビ養殖場などが立地しています。
かつては、南日本酪農協同が鹿児島工場を1966年(昭和41年)から西餅田で運営して飲料牛乳の生産を行っていましたが、周辺が宅地化して拡張困難などの理由で他の工場へ移転統合され、1991年(平成3年)に閉鎖されました。岩崎産業は、かつて重富駅南東側で鉄道用の枕木の製造を行う工場を運営していました。
第三次産業
姶良市内において伝統的な商店街のあった場所は、加治木町本町の加治木町役場周辺、鍋倉の旧帖佐町役場周辺、東餅田の帖佐駅周辺、脇元の重富駅周辺、下名の旧山田村役場周辺、蒲生町上久徳の蒲生町役場周辺などです。姶良町の合併後に姶良町役場が新たに宮島町に建設されて、その周辺が帖佐駅周辺と一体となって商店街として新たに発展しました。その後の大型店舗の進出の影響などを受けていて、姶良市になってもまとまった商店街として残っているのは姶良市役所加治木総合支所(旧加治木町役場)周辺・姶良市役所周辺・姶良市役所蒲生総合支所(旧蒲生町役場)周辺などです。
姶良市内において最大の売り場面積を持つ商店は、1988年(昭和63年)11月25日に東餅田に開業した「サンシティリブレ」です。開業時の床面積は約12,000 平方メートルで、当初はマイカルと提携した地元のスーパー「ヱビスヤ」が運営していました。同社はその後1993年(平成5年)に隼人町(後の霧島市の一部)に隼人国分サティを開業させ、1997年(平成9年)3月1日にマイカル系の「南九州ファミリーデパート」と合併して「マイカル南九州」となりました。リブレは2000年(平成12年)3月16日に約14,550 平方メートルへ増床を行い、また「姶良サティ」と名称変更しました。同年、マイカル南九州はマイカル九州と合併しましたが、2001年(平成13年)9月に経営破綻しました。しかし、旧マイカル南九州の店舗は業績が好調であることから閉鎖対象とはならず営業を継続し、2007年(平成19年)8月21日にイオン九州に吸収合併されて、さらに2011年3月にイオン傘下のスーパーマーケット各店の名称が統一されて「イオン姶良ショッピングセンター」となって、同社の運営により2012年現在も営業しています。さらにこの施設の向かいに姶良市土地開発公社が所有する約3万2680平方メートルの土地をイオンタウンが借り受けて、2015年春に大型ショッピングセンターを開設する計画が進んでいます。
鹿児島県最大の百貨店である山形屋のサテライトショップが西宮島町に、山形屋ストアが加治木町本町にあります。この他にタイヨー・だいわ・エーコープ・クッキー・城山ストア・ニシムタ・ナフコなどのスーパーマーケットやホームセンターがあります
国道10号加治木バイパス・姶良バイパスの周辺は、郊外型の小売店やレストランなどが進出してきていて、伝統的な商店街に対して新興の商業地域を形成しています。
金融業としては、鹿児島銀行・南日本銀行・鹿児島信用金庫・鹿児島相互信用金庫・鹿児島興業信用組合・九州労働金庫の支店や出張所があります
流通業としては、コープかごしま姶良商品センターが中津野に、ヤマト運輸の配送センターが姶良インターチェンジの近くにあり、特にヤマト運輸は合併前の九州ヤマト運輸の本社所在地でありました。
地域
人口
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姶良市(に相当する地域)の人口の推移 1970年 | 51,608人 | |
1975年 | 55,540人 | |
1980年 | 62,992人 | |
1985年 | 66,830人 | |
1990年 | 68,789人 | |
1995年 | 71,762人 | |
2000年 | 73,640人 | |
2005年 | 74,840人 | |
2010年 | 74,817人 | |
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教育
姶良市内に大学は所在せず、高等学校以下の教育機関が所在しています。1986年度まで加治木町木田に正心女子短期大学が所在していました。
高等学校
加治木町仮屋町に県立加治木高校、加治木町新富町に県立加治木工業高校、加治木町木田に私立龍桜高校、蒲生町下久徳に県立蒲生高校の4つの高校が所在します。
鹿児島県では普通科の県立高校を13の学区に分類して、学区外からの進学に対しては定員の10 パーセントまでに制限しています。姶良市は全域が伊佐・姶良学区に属していて、他に薩摩川内市の東部・霧島市の西部・姶良郡湧水町・伊佐市が同じ学区にあります。この中で普通科のある学校は加治木・蒲生・大口の3つの高校となります。姶良市内からは普通科の場合市内の加治木・蒲生の2つの高校が多く、また他にも鹿児島市や霧島市にある普通科の高校へ学区外進学をする生徒もいます。
かつての旧姶良町内には高等学校以上の教育機関が1つも所在していなかったのです。鹿児島県の条例では、市制施行の条件として高等学校以上の教育機関が1つ以上あることを定めていて、単独での市制施行を考えていた旧姶良町は高校の誘致を悲願としていました。1988年(昭和63年)に東海大学が附属高校を旧姶良町内に設置する意向を示しましたが、1991年(平成3年)に県私学審議会により長期的な生徒減少の傾向を理由に却下されました。またその後、単位制高校の設置が検討された際にも誘致に名乗りを上げましたが、生徒の通学上の利便性などの検討から鹿児島市内に開陽高校として設置されることが決定されました。
中学校
加治木町反土に加治木中学校、西餅田に帖佐中学校、脇元に重富中学校、下名に山田中学校、蒲生町北に蒲生中学校の合計5つの中学校が所在します。全て市立の中学校で、合併に際して校区の変更はなくそのまま引き継がれています。姶良町内の3つの中学校については、姶良町の合併元になった3つの町村の名前を反映していて、校区もほぼ旧町村域ですが、合併前から越境通学があり合併時にも校区の変更を行っているため、校区は旧町村と厳密な一致はありません。鹿児島市や霧島市にある私立の中学校に入学し、電車通学や下宿をする生徒もいます。
小学校
姶良市内の小学校は全部で19校(休校中の2校を含む)あります。中学校と同じく全て市立で、合併に際して校区の変更はなくそのまま引き継がれています。
柁城小学校(加治木町仮屋町) 錦江小学校(加治木町錦江町) 加治木小学校(加治木町木田) 竜門小学校(加治木町小山田) 永原小学校(加治木町西別府) 建昌小学校(東餅田) 帖佐小学校(鍋倉) 姶良小学校(西餅田) 松原なぎさ小学校(松原町) 重富小学校(平松) | 西姶良小学校(西姶良) 三船小学校(永瀬) 山田小学校(下名) 北山小学校(北山) 蒲生小学校(蒲生町上久徳) 大山小学校(蒲生町白男、休校中) 新留小学校(蒲生町白男、休校中) 西浦小学校(蒲生町西浦) 漆小学校(蒲生町漆) |
警察
市全域が東餅田に所在する鹿児島県警察姶良警察署の管内です。管内の交番・駐在所として、加治木中央交番・姶良交番・重富交番・蒲生駐在所・山田駐在所があります姶良警察署の管轄は姶良市内のみですが、市町村合併に伴い鹿児島県内の警察署の管轄が全面的に見直された2006年10月までは、霧島市に合併した旧溝辺町も管轄としていました。旧溝辺町はそれ以降霧島警察署管轄となっています。
姶良市内は、鹿児島県内では犯罪が多い傾向にあります。鹿児島県警の集計による平成20年(2008年)の人口1万人あたりの刑法犯犯罪率では、市町村別の順位で旧加治木町が県内3位、旧姶良町が4位と上位に入っています。
この他に警察関連施設として鹿児島県警察学校が平松に所在します。2009年3月に鹿児島市坂元町から移転してきました。敷地面積4万8000平方メートルで整備費43億5000万円でありました。また、1966年(昭和41年)に運用が開始された鹿児島県総合運転免許試験場が東餅田に所在します。
消防
加治木町・姶良町・蒲生町に加えて、後に霧島市に合併した溝辺町の4町で1971年(昭和46年)4月1日に「姶良郡西部消防組合」が発足し、管内の消防・救急業務を担ってきました。1994年(平成6年)10月1日に、後に鹿児島市に合併した吉田町を加えて5町で消防組合を運営してきました。しかし2004年(平成16年)11月1日に鹿児島市への合併で吉田町が離脱し、さらに2005年(平成17年)11月7日に霧島市への合併で溝辺町が離脱しました。これにより、後に姶良市を構成することになる3町の面積231.31平方キロメートル、人口約75,000人を管轄する消防・救急組織となりました。加治木町木田に消防本部と中央消防署を併設し、この他に平松に姶良分遣所、蒲生町白男に蒲生分遣所を配置しています。2013年(平成25年)4月1日現在で 広報連絡車1台 査察車1台 警棒車1台 指揮車1台 ポンプ車3台 小型ポンプ車4台 救助工作車1台 資機材搬送車1台 救急自動車4台(予備車1台2B型)職員90人を擁しています。合併に際しては、組合を解消して職員と財産を新市に移管し、姶良市消防本部として発足しました。
この他に消防団組織が各町別に存在していて、合併に際して統合されました。
上水道
上水道は、合併もとの3町でそれぞれ整備されています。
蒲生町では、1963年(昭和38年)4月1日から上水道の給水が行われています。米丸に水源地を持ちます。
旧姶良町では南部平野地帯に上水道があり、山田水源地、中津野水源地、船津浄水場の3箇所から水が供給されています。別府川からの取水も一時検討されましたが、水利権の問題などから断念し、現在は全量を地下水によって給水しています。白浜地区、成美地区には独立した簡易水道が存在します。1967年(昭和42年)8月から給水が開始されています。
加治木町では、1955年(昭和30年)3月から上水道の給水が開始されています。加治木町内には水源を確保できず、隣接する溝辺町(後の霧島市)崎森に2箇所設けた水源地から取水しています。これらは南部平野地帯に給水していますが、このほかに北部台地上に集落ごとに簡易水道設備があります
衛生
下水道は、旧姶良町と旧加治木町が協力して建設する計画があったのですが、進展していません。下水処理場の建設位置について1981年(昭和56年)から検討が行われてきましたが、人家の近くに建設することが嫌われ、1993年(平成5年)に脇元の干潟を埋め立てて処理場とレクリエーション施設を建設する方針が打ち出されました。これに対して環境保護団体などから干潟の浄化能力を低く見積もりすぎていると反対があり、また付近にクルマエビの養殖場を持つ岩崎産業から土地の譲渡の打診が行われるなどして議論が混乱しました。その後、建設計画に特に進展は見られないです。汲み取り式便所がまだ多く見られりますが、浄化槽の設置が進められています。
汲み取り作業、ごみの収集・処理、火葬場の運営などは、合併まで姶良郡西部衛生処理組合が行っていました。加治木町、姶良町、蒲生町、溝辺町の4町で発足し、後に現在は鹿児島市の一部となっている吉田町が加入して運営されていました。その後平成の大合併の関係により、加治木町、姶良町、蒲生町の3町での組織となっていました。吉田町本城町で清掃工場を運営してきましたが、老朽化により2007年4月に加治木町西別府に総工費25億5000万円で新施設の建設を開始し、2008年12月25日に火入れ式を行ったのです。1日の処理能力37トンの焼却炉2基と処理能力8.5トンの灰溶融炉が設置されています。2009年4月から本運転となっています。この他、加治木町木田にし尿処理施設、加治木町西別府にごみ最終処分場、鍋倉に火葬場が所在します。
合併に際しては、消防組合と同様に組合を解消して職員と財産を新市に移管し、市直轄の組織を発足させています。
福祉・医療
加治木町木田に国立病院機構南九州病院が所在します。姶良・伊佐保健医療圏における地域がん診療連携拠点病院に指定されています。呼吸器疾患、結核医療、神経・筋疾患医療、脳性麻痺の早期診断・早期診療、小児慢性疾患の基幹施設としての役割、障害児の療育などの特色がある国立病院機構 南九州病院 公式ウェブサイト
平松に県立姶良病院が所在します。鹿児島県立病院としては唯一の精神科病院です。1924年(大正13年)に鹿児島市宇宿町に設立された県立病院精神科分院が前身で、1943年(昭和18年)に現在地へ移転してきました。また、姶良町北山には姶良町立の診療所があり、これは新市に引き継がれました。
この他、南部平野地帯には各種診療科目を備えた民間の病院が多数所在します。一方で北部山間地帯にはごく少数で、公立の診療所がこれらの地域の医療を支えています。また蒲生町については歯科を除くと3つしか医療機関がなく、その全てが町役場に近い蒲生町上久徳に所在しています。
加治木町木田に、南九州病院に隣接して鹿児島県立加治木養護学校が所在します。障害のある児童や入院中の児童の教育を行っています。鹿児島県立加治木養護学校
エネルギー・通信
姶良市内全域では九州電力が電力を供給しています。市内の発電所は水力発電所2箇所のみで、別府川支流の前郷川に前郷川発電所(出力120 kW、1924年(大正13年)8月稼動)、網掛川支流の宇曽木川に宇曽木発電所(出力220 kW、1924年(大正13年)4月稼動)があります
かつては加治木電気会社という電力会社が現在の姶良市一帯で電力事業を行っていました。1911年(明治44年)2月14日付で認可を受けて、2月22日に加治木電気会社が設立され、1912年(明治45年)1月1日に加治木・帖佐・山田・蒲生を給電範囲として事業を開始しました。総工費93万5000円をかけて、ドイツから輸入した発電機とスイスから輸入した水力タービンを設置した春日発電所を網掛川に建設しました。その後、1929年(昭和4年)1月に鹿児島電気によって買収され、1942年(昭和17年)11月1日に九州配電となり、第二次世界大戦後1951年(昭和26年)10月に九州電力となっています。春日発電所はこの年に火災事故に遭って廃止となっています。また蒲生町においても、1920年(大正9年)に蒲生水力発電株式会社が設立されて白男に発電所を設置していました。これは後に加治木電気会社に吸収されました。
ガスについては、加治木町港町に本社を置く加治木ガスが加治木町・姶良町域で2007年(平成19年)3月現在6,183 戸に都市ガスを供給しています。加治木ガス公式サイト。しかし、旧姶良町でも人口の多い平野部の大半から蒲生町域を含む北部山間地帯まではまだプロパンガスを使用しています。
電話に関しては西日本電信電話(NTT西日本)鹿児島支店の管轄です。南部平野地帯においてはFTTHを含むブロードバンドインターネット接続が開通していますが、北部山間地帯においては大半の地域でブロードバンドインターネット接続を利用できる状況になく、新市まちづくり計画においても未整備地区の解消が課題に挙げられています。加治木町諏訪町に加治木電報電話局が1961年(昭和36年)9月10日に落成しています。
郵便は、姶良市域内では加治木に1872年(明治5年)7月1日加治木郵便取扱所として発足したのが最初で、1875年(明治8年)1月1日に加治木郵便局となりました。続いて、1874年(明治7年)12月6日に蒲生郵便局、同年12月17日に重富郵便局、1903年(明治36年)12月1日に帖佐郵便局、1908年(明治41年)2月1日に山田郵便局と順次開設されました。これらは郵政民営化以前は、加治木郵便局が集配普通局であったほかは集配特定局でありました。帖佐郵便局は、1971年(昭和46年)4月5日に姶良郵便局と改称しましたが、元の帖佐町役場の近くに残り、新しい姶良市役所(現在の姶良町役場)に近いのは無集配特定局であった帖佐駅前郵便局です。この他に加治木須崎・高井田簡易・木田簡易・小山田簡易・西別府簡易・三船・平松簡易・帖佐松原簡易・北山簡易・木津志簡易・堂山簡易・薄原簡易・米丸簡易・漆簡易の各郵便局があります
その他の施設
加音ホール
加治木町木田にある文化会館で、この字で「カノンホール」と読ませています。敷地面積約21,500平方メートル、地上3階地下1階の延べ床面積約7,430平方メートル、建設費は約41億6800万円で、1996年(平成8年)10月5日に開館しました。大ホールは817席、小ホールは300席あり、他に生涯学習用の視聴覚室や会議室などを備えています。加音ホール公式ウェブサイト。
姶良市立中央図書館
西餅田にある市立の図書館で、当初は姶良町立図書館として1995年(平成7年)10月22日に起工し、1997年(平成9年)3月25日に開館しました。敷地面積約4,280平方メートル、一部2階建て延べ床面積約2,426平方メートルで、総事業費約13億1000万円でありました。開館当初の蔵書は開架約55,000冊、閉架約36,000冊で、開館後も蔵書の増強を続けて10万冊級の図書館となっています。鹿児島県内で10万冊を超える蔵書を持つ図書館は、鹿児島県立図書館・鹿児島市立図書館に次ぐ3番目のものです。また、この他に加治木町仮屋町に市立加治木図書館、市内に7つの図書室が有ります。
椋鳩十文学記念館
児童文学者の椋鳩十が長く加治木町に居住していたことを記念して、1990年(平成2年)に加治木町反土に開館した文学記念館です。ふるさと創生事業の資金を活用して建設されたもので、加治木町開発公社に運営を委託しています。2003年11月には第2代館長を務めていた、椋鳩十の長男でもある久保田喬彦が、ずさんな管理などに不満を訴えて館長を辞任するとともに寄託していた資料を引き上げています。
姶良市歴史民俗資料館
姶良市歴史民俗資料館は、東餅田にある市立の資料館で、常設展示のほかさまざまな企画展示を行っています。市内の文化財の保存や研究の活動も行っています。1986年(昭和61年)8月27日に着工され、1988年(平成元年)1月30日に姶良町歴史民俗資料館として開館しました。敷地面積1987.24 平方メートルに鉄筋コンクリート2階建て述べ床面積884.14 平方メートルの建物で、総工費は2億5028万5000円でありました。姶良市歴史民俗資料館ウェブサイト。
スターランドAIRA
北山にある姶良市立の天文台です。
交通
姶良市の最寄り空港は、隣の霧島市溝辺町に位置する鹿児島空港です。姶良市役所本庁からは直線距離で約12 kmと近い距離にあります。
鉄道
市南部を東西方向に、東隣の霧島市、南西方向の鹿児島市とを結んで九州旅客鉄道(JR九州)の日豊本線が横断しています。市内には5つの駅が所在していますが、旧蒲生町域には駅も線路も存在しません。姶良市の市域に相当する地域に鉄道が開通したのは1901年(明治34年)のことで、これは鹿児島市を鹿児島県外の地域と結ぶことを目的とした路線の一部でありました。後に海岸沿いの川内駅経由の路線が開通するまで、この路線が鹿児島本線でありました。日豊本線となってからは、九州の東海岸を結ぶ鉄道網の一角を成しています。路線の開業当初からあった駅は加治木駅と重富駅のみで、帖佐・山田・蒲生の各村からの陳情を受けて1926年(大正15年)に帖佐駅が開設されました。その後、地域の人口増加などを受けて国鉄分割民営化の前後に相次いで錦江駅と姶良駅が開設されました。姶良駅は、結果的には市名を名乗っている駅ですが、姶良市の市役所本庁舎の最寄り駅は帖佐駅です。
鹿児島中央駅から国分駅までの姶良市と霧島市の沿線は鹿児島市のベッドタウンを形成していて、またそれぞれの地域にある職場や学校などへの通勤・通学での日常の交流も盛んです。
九州旅客鉄道(JR九州)
日豊本線
加治木駅 - 錦江駅 - 帖佐駅 - 姶良駅 - 重富駅
バス路線
一般路線バス
1935年(昭和10年)2月21日に国鉄バス加治木線が開設され、加治木駅 - 帖佐駅 - 蒲生町 - 入来駅を結んでいました。これは国鉄分割民営化以後、ジェイアール九州バスに引き継がれていましたが、次第に縮小され1997年(平成9年)4月7日に全線廃止され、南国交通へ引き継がれました。
三州自動車・いわさきバスネットワーク・南国交通は国道10号を経由して鹿児島市や霧島市方面とを結ぶ路線を運営しています。この他に南国交通はジェイアール九州バスの代替の蒲生方面との路線や、姶良町北部への路線などを運営しています。
コミュニティバス
合併元の各町が、一般路線バスの撤退した地域を中心としてコミュニティバスを運行していて、これは新市に引き継がれています。加治木町ではいわさきバスネットワーク(かつての林田バス)に委託していて、姶良町・蒲生町では南国交通に委託して運行を行っています。
旧加治木町では、2002年(平成14年)8月15日から2路線5系統で運行を行っています。2台のバスは地元の伝統行事にちなんで「山っこ号」「太鼓おどり号」と名づけられています。日木山や小山田などの郊外部と市街地を結んでいます。
旧姶良町では、帖佐駅と木津志、北山診療所を結ぶ帖佐木津志線と、帖佐駅から船津・春花を結ぶ帖佐春花線の2路線を運行しています。どちらも1日3往復です。帖佐木津志線は1992年(平成4年)7月から(帖佐駅への延長は1996年)、帖佐春花線は1996年(平成8年)4月8日から運行を開始しました。運行は南国交通に委託されていますが、当初は地元の事業者であるあいら交通が運行していました。
旧蒲生町では2002年(平成14年)10月1日から、かつてのジェイアール九州バス蒲生町駅跡を拠点として町内を循環する6コースでコミュニティバスを走らせています。どのコースも運行があるのは週に2日で、運行がある日は1日2往復運転されています。
高速バス
西餅田に高速帖佐バスストップが所在します。空港連絡バス以外はいずれも鹿児島市と他県の都市を結んでいる高速バスですが、帖佐からは他県の都市との間でのみ利用可能で、鹿児島市との間では利用できません。
九州自動車道帖佐バスストップ
高速「はまゆう号」 宮崎市 - 帖佐 高速「桜島号」 福岡市 - 帖佐 高速「きりしま号」 熊本市 - 帖佐 高速「ランタン号」 長崎市 - 帖佐 南国交通の鹿児島空港と薩摩川内市を結ぶ空港連絡バス
観光バス
九州新幹線鹿児島ルート全線開通に合わせて2011年3月12日から試験的に、鹿児島中央駅を発着して姶良市内を周遊する観光バス「あいらびゅー号」を運行しています。休日のみ1日1往復で、季節に応じてコースを変えながら姶良市内の各観光名所を循環します。運行開始前日の3月11日にはプレ運行が行われました。運行を受託しているのはJTB鹿児島支店です。
道路
江戸時代まで、この地域を通過する主要な道路としては薩摩街道のうちの大口筋と高岡筋がありました。鹿児島から吉田の山の上を通り、白銀坂を下って姶良の平野部に入り、加治木の龍門司坂を上って北へ霧島市方面へ抜けるのが大口筋で、このうち加治木から分岐して東の国分・宮崎方面へ抜けるのが高岡筋でありました。海岸沿いに鹿児島と重富を結ぶ現在の国道10号となる道は明治天皇行幸に際して1872年(明治5年)から開削が始まり、1873年(明治6年)9月に開通したもので、それまでは吉田の山の上を通って難所の白銀坂を下るか、ずっと北の方を迂回する必要がありました。このことから鹿児島との間の移動は加治木や帖佐の納屋町、重富の脇元などからの船便を利用するのが一般的でありました。
高速道路
鉄道と同様に、市南部を横断するように九州自動車道および隼人道路が通っています。ただし鉄道と国道10号が東へ宮崎方面へつながっているのに対して、高速道路は加治木から北上して鹿児島空港や熊本・福岡方面へと通じています。また西側では、鉄道と国道10号が山が海に迫る海岸の狭い部分を通過しているのに対して、高速道路は旧吉田町側の台地の上を経由して鹿児島市方面と結んでいます。
1973年(昭和48年)12月13日に鹿児島県内で最初の高速道路として加治木インターチェンジと薩摩吉田インターチェンジの間が開通し、さらに1976年(昭和51年)11月29日に北側が溝辺鹿児島空港インターチェンジまで伸びたことで、姶良市内の九州自動車道は全通しました。また九州の東海岸を結ぶ東九州自動車道の一部をなす国道10号バイパスの隼人道路が1992年(平成4年)3月25日に開通して、加治木インターチェンジで九州自動車道と連絡しました。その後インターチェンジの改造工事が行われて、一般道に出ずに直接九州自動車道と隼人道路を行き来できるようになり、加治木ジャンクションが開設されました。平成5年8月豪雨に際しては、姶良ニュータウン南側の崖が崩れ、桜島サービスエリアの上り線が土砂に埋没して長期間使用不能となるなど大きな影響を受けました。
加治木ICは旧加治木町の中心部近くに所在するのに対して、姶良ICは鹿児島市との境界に近い場所に位置していて、旧姶良町の中心部の多くの地域からも加治木ICの方が近いです。旧蒲生町内は高速道路が通っておらず、これらのどちらかのインターチェンジを利用することになります。
九州自動車道・東九州自動車道(隼人道路)
加治木ジャンクション(加治木町反土) 加治木インターチェンジ(加治木町日木山) 帖佐バスストップ(西餅田) 桜島サービスエリア(西餅田) 姶良インターチェンジ(平松)
姶良市中心部にインターチェンジが無いことから、姶良市では桜島サービスエリアにスマートインターチェンジを設置する構想がある
一般国道
国道もまた、九州東海岸を結ぶ国道10号が南部平野地帯を東西に横断していて、旧加治木町・姶良町を経由しますが、旧蒲生町内に国道はありません。2009年現在、国道10号加治木バイパスおよび姶良バイパスが開通していて、姶良バイパスに並行する区間の旧国道は県道および町道に格下げされていますが、旧国道を含めて説明します。
国道10号は霧島市側から滝口坂と呼ばれる小さな峠を越えて加治木町日木山に入り、日木山川を日木山橋で横断して旧加治木町中心部の加治木町反土・加治木町朝日町・加治木町本町を通過し網掛川を網掛橋で横断します。加治木町錦江町と加治木町木田を通過して姶良橋で別府川を横断します。旧姶良町に入り、東餅田・西餅田・平松を通過して重富橋で思川を渡り、脇元で海岸の崖下を通って鹿児島市方面へ通じています。このうち、加治木町木田の東岩原交差点から姶良橋を横断するところまで部分的に付け替えが行われていて、東岩原交差点では国道が交差点を曲がる側に続いています。また加治木団地入口の交差点から十日町交差点までは加治木バイパスの一部としても扱われています。
国道10号加治木バイパスは、加治木町日木山の九州自動車道・隼人道路加治木インターチェンジ出入口付近から、網掛川とその支流を網掛橋・宇曽木川橋・ふれあい橋・馬おどり橋で横断しながら加治木町反土と加治木町木田を通過して、姶良橋で別府川を横断し東餅田の十日町交差点で国道10号旧道となります。隼人道路と一体となって霧島市方面と結ぶ道路です。姶良バイパスは十日町交差点の少し西側の東餅田で旧道から分岐し、宮島町の北側を通って西餅田・西宮島町、しらかね橋で思川を渡って池島町・脇元を経由して脇元高架橋で鉄道と旧道を乗り越して旧道へ合流します。姶良市内の国道総延長は12,733 mです。
従来の国道10号線に関しては、加治木バイパスと重複する区間および加治木バイパスと姶良バイパスの間、鹿児島市との境界付近の約125 mなど、わずかな区間が4車線化されているのみで、ほぼ全区間に渡り2車線の道路です。1881年(明治14年)に県道一等として鹿児島と宮崎を結ぶ路線が指定されたのが始まりで、1885年(明治18年)に国道38号と指定されました。1919年(大正8年)の道路法により3号国道となり、東京から九州東海岸を経由して鹿児島を結ぶ路線が指定されました。1952年(昭和27年)に道路法改正で国道10号となりました。
加治木バイパスは全長4.2 kmで、1981年(昭和56年)度に工事に着手し、0.4 kmのみが暫定2車線で同年10月に開通していましたが、その後の工事は大きく遅れました。その後、旧道と共用する区間の4車線化などと並行して工事が進められ、2002年(平成14年)4月19日に暫定2車線区間を含めて加治木ジャンクションまでが開通しました。さらに4車線化の工事が進められ、2009年(平成21年)4月29日の0.5 km供用で合計2.9 kmが4車線化され、残る1.3 km部分が2013年3月3日に開通しました。 姶良バイパスは全長5.6 kmで、1980年(昭和55年)度から工事に着手しました。1985年(昭和60年)8月の脇元高架橋の完成を皮切りに順次建設が進められ、1998年(平成10年)4月25日に残る0.7 kmの区間が開通して全通しました。さらに4車線化が進められて2002年(平成14年)9月1日に4.2 kmが4車線化されました。しかし脇元高架橋の区間については2車線のままで残されています。
これらのバイパスとも、沿線は郊外型のショッピング施設やレストランなどが立ち並んだ地帯となっています。両バイパスの4車線化に際しては中央分離帯が設置されることになり、側道や沿線の商業施設への出入りに悪影響を与えるとして住民から強い反発があったのですが、最終的に交通事故防止などのために不可欠との判断から設置が行われました。
主要地方道
鹿児島県道25号鹿児島蒲生線 - 1954年(昭和29年)4月1日認定、鹿児島市吉田町から佐山峠を越えて蒲生町久末を通り、蒲生町上久徳の市街地まで、市域内では県道40号と全面的に重複している、市域内路線長1,685 m。 鹿児島県道40号伊集院蒲生溝辺線 - 1994年(平成6年)3月11日認定、鹿児島市吉田町から蒲生町上久徳までは県道25号線と重複し、そこから東へ向かい住吉を通り、寺師で県道446号を横断し、下名から上名までは県道391号と重複し、加治木町西別府と加治木町辺川を経由して霧島市溝辺町へ抜ける、市域内路線長11,045 m。 鹿児島県道42号川内加治木線 - 1972年(昭和47年)3月24日認定、薩摩川内市祁答院町から蒲生町西浦に入り、蒲生町北で県道211号と合流し、蒲生町上久徳で県道25号・県道40号・県道463号と交差して蒲生町下久徳を通り、永瀬・増田・中津野・豊留を通り三拾町の山田口交差点で県道391号と合流する、鍋倉の米山交差点で県道391号を分岐し、加治木町木田の国道10号とのみろく交差点まで、通称空港道路、市域内路線長16,261 m。 鹿児島県道51号宮之城加治木線 - 1972年(昭和47年)3月24日認定、市域内では全面的に県道42号と重複しています。 鹿児島県道55号栗野加治木線 - 1965年(昭和40年)12月1日認定、霧島市溝辺町から加治木町小山田に入り、県道56号を合流して加治木町反土を通り加治木ICと加治木バイパスの交差点を通り、加治木町新富町、加治木町本町を通り国道10号との交差点まで。市域内路線長8,366 m。 鹿児島県道56号隼人加治木線 - 1982年(昭和57年)12月17日認定、霧島市溝辺町から入り、加治木町小山田の県道55号交差点まで。市域内路線長3,286 m。 鹿児島県道57号麓重富停車場線 - 1958年(昭和33年)11月1日認定、鹿児島市吉田町から思川に沿って平松に入り、姶良バイパスを横断して国道10号旧道に入り、重富駅前まで、市域内路線長4,356 m。
一般地方道
鹿児島県道211号小山田川田蒲生線 - 1958年(昭和33年)11月1日認定、鹿児島市郡山町から蒲生町白男に入り、おおむね前郷川に沿って蒲生町久末も通りながら、蒲生町北にある県道42号との北中三叉路まで、市域内路線長11,211 m。 鹿児島県道391号下手山田帖佐線 - 1972年(昭和47年)3月24日認定、薩摩川内市祁答院町から蒲生町漆に入り、漆浦三叉路を通り木津志を南下、北山と寺師の間で県道446号と短い重複区間があり、上名に入り県道40号に合流、下名で分岐して深水を南下し、三拾町の山田口交差点で県道42号に合流、鍋倉の米山交差点で分岐して帖佐橋で別府川を渡り、西餅田・宮島町を通り姶良バイパスを横断し国道10号旧道との帖佐駅前交差点まで、市域内路線長19,073 m。 鹿児島県道395号山之口真黒線 - 1958年(昭和33年)11月1日認定、薩摩川内市入来町から入来長野峠を越えて蒲生町白男の県道211号との真黒岳下三叉路まで、市域内路線長1,144 m。 鹿児島県道446号十三谷重富線 - 1958年(昭和33年)11月1日認定、霧島市横川町から北山の堂山集落に入り、北山を南下して寺師との境界付近では県道391号と重複し、さらに南下して増田を通り三船橋で別府川を横断して船津に入り、一部西餅田・平松を通りながら姶良ニュータウンのある西姶良に入り、平松・脇元を通って重富小学校前の県道57号との交差点まで、市域内路線長23,425 m。 鹿児島県道462号堂山宮之城線 - 1958年(昭和33年)11月1日認定、北山の堂山地区で県道446号から分岐し、薩摩川内市祁答院町方面へ抜ける、市域内路線長2,968 m。 鹿児島県道463号浦蒲生線 - 1958年(昭和33年)11月1日認定、蒲生町漆の漆浦三叉路で県道391号から分岐し、蒲生町西浦をかすめながら蒲生町米丸を南下して蒲生町上久徳の市街地まで、市域内路線長10,097 m。 鹿児島県道465号松原帖佐停車場線 - 1958年(昭和33年)11月1日認定、鹿児島県総合運転免許試験場前から運転試験場前交差点を通り、国道10号旧道を通って帖佐駅前交差点から帖佐駅前まで、通称試験場道路、市域内路線長2,277 m。 鹿児島県道466号加治木停車場線 - 1958年(昭和33年)11月1日認定、加治木町諏訪町の県道55号交差点から加治木駅前まで。市域内路線長230 m。 鹿児島県道467号加治木港線 - 1958年(昭和33年)11月1日認定、加治木町本町の国道10号交差点から加治木町港町の加治木港まで。市域内路線長520 m。
港
加治木町港町に加治木港が所在しています。しかし定期旅客船は就航しておらず、主に貨物輸送に用いられています。姶良郡内で用いるセメントなどの建設資材や、菱刈鉱山からの金鉱石などが扱われています。平成5年8月豪雨に際しては、道路と鉄道が寸断されたため、鹿児島市との間で鹿児島県のチャーターした旅客船が臨時に運航されました。
名所
龍門滝
山田の凱旋門
蒲生八幡神社
龍門滝
網掛川が姶良平野に流れ出す場所にある高さ46 m、幅43 mの滝で、日本の滝百選に選ばれています。
蔵王岳
加治木町日木山にあり、市街地からよく見えるところに屹立する標高164 mの山です。加治木町のシンボル的な存在で、1984年(昭和59年)から山頂に国旗が掲揚されています。
住吉池
約6,000年前の火山活動で形成された池で、蒲生町上久徳側のほとりに公園とキャンプ場が整備されています。
臥龍梅
寺師地区にある梅の名所。
蒲生八幡神社
樹齢約1,500年と推定される蒲生のクスで有名な神社。
山田の凱旋門
日露戦争を記念して建てられた石造りの凱旋門で、現存するものは珍しいです。
岩剣城跡
日本で最初に鉄砲が実戦で使用されたと言われている戦国時代の山城です。
龍門司坂
江戸時代に幹線道路として使用された石畳の坂道で、「大口筋龍門司坂」として国の史跡に指定されています。
白銀坂
海岸沿いを通る後の国道10号になる道路が明治になって開通するまで、姶良郡方面から鹿児島市へ抜けるために台地の上まで登る街道として利用されていた坂で、石畳の残る道が歴史国道に選定されています。
姶良市総合運動公園
1984年(昭和59年)から順次整備を開始した、陸上競技場・野球場・体育館・テニスコートなどを備えている総合運動公園です。野球場は両翼95 m、センター120 mの公式戦にも利用できるもので、釜山ロッテ・ジャイアンツのキャンプ地となったことがあります
重富温泉
ナトリウム - 塩化物泉
陶夢ランド
陶夢ランド(とむランド)は、加治木町小山田に建設された陶芸と健康づくりの拠点施設です。2002年(平成14年)4月15日に開園しました。敷地面積約2万7000平方メートル、建屋面積894平方メートルで総事業費は13億7900万円でありました。陶芸の体験教室などが開かれています。2009年4月から龍門司焼企業組合が指定管理者となって運営しています。陶夢ランド公式サイト。
県民の森
1984年(昭和59年)5月19日に第35回全国植樹祭が行われました会場の跡地を利用した森林公園。
さえずりの森
さえずりの森は加治木町西別府にあるバンガローやコテージを備えた施設です。1989年(平成元年)から約13ヘクタールの敷地に整備を開始し、順次施設を開業させて1995年(平成7年)4月にキャンプ場などが完成しました。総事業費は約4億円でありました。2009年(平成21年)4月1日から姶良西部森林組合が指定管理者として運営を行っています。さえずりの森公式サイト。
なぎさ公園
脇元の海岸沿い、重富漁港と思川河口の間にある公園です。潮干狩りなどができます。桜島にある溶岩なぎさ公園とは異なります。
城山公園
蒲生城跡地に開設された公園で、春の桜や秋の紅葉が見られます。また蒲生町の中心部を見渡すことができる展望台があります
高岡公園
加治木町西別府の高台に所在する公園で、春には桜の見所となります。
田の神
鹿児島県周辺では石造りの田の神が随所に見られ、鹿児島弁で「タノカンサア」と呼ばれています。また持ち運べる小さな田の神像を拝む習俗もあります。姶良市内では加治木町木田・加治木町日木山・触田(平松の一部)・木津志・蒲生町漆・蒲生町下久徳などに所在する田の神がよく知られています。
行事
加治木くも合戦
毎年6月第3日曜日に開催される、コガネグモ同士を戦わせる伝統行事です。1996年(平成8年)11月28日に国により「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」(選択無形民俗文化財)として選択されています。
姶良ジャンボ鬼火焚き
毎年1月下旬に三拾町で開催される鬼火焚きです。やぐらの規模が特に大きいもので、2006年(平成18年)1月21日に開催した鬼火焚きでは高さ41 mのやぐらを組んでいます。
名産
帖佐人形
粘土を型に入れて素焼きし、彩色した人形です。昭和の初め頃に一度は途絶えていましたが1965年(昭和40年)に復活し、西餅田で生産されていて、その素朴さを評価されています。
蒲生和紙
1645年(正保2年)から、殖産興業政策を進めた家老の島津久通の命で、地域の郷士に副業として製紙の技術を習得させ、その紙を納付させて藩の専売としたものです。
加治木饅頭
加治木町の中心部などで複数の店舗が販売している蒸し饅頭です。
龍門司焼
島津義弘が文禄・慶長の役(朝鮮出兵)に際して連れ帰った陶工が始めた薩摩焼の一種。
蒲生紅茶
蒲生の風土が茶の栽培に適していたことから、紅茶の栽培が以前から行われていましたが、海外からの輸入に押されて昭和40年代には一度衰退していました。これを再興して特産品としたのが蒲生紅茶です。
芋焼酎
姶良市内では脇元の白金酒造、加治木町諏訪町のさつま司酒造の2社が芋焼酎を生産しています。かつては帖佐醸造も鍋倉に所在していましたが、霧島市へ工場を移転し霧島横川酒造となっています。白金酒造の石蔵は国の登録有形文化財に登録されています。白金酒造ウェブサイト。
姶良市出身の有名人
鶴ヶ嶺昭男(大相撲関脇) 笹峯愛(タレント) 寺尾常史(大相撲関脇)※実際は東京都墨田区生まれ・育ち 湯元敏浩(日本テレビ元プロデューサー) スマイリー園田(MBCタレント) 神田橋條治(精神科医) 城彰二 (元プロサッカー選手)※出生は北海道 猪俣睦彦(MBCタレント) 川﨑宗則(プロ野球選手) 黒江透修(元プロ野球選手) 竹下玲奈(タレント) 仰山達彦(ローカルリポーター) 西眞一(元サッカー選手) 飯伏幸太(プロレスラー) 小山田大(プロフリークライマー) 村山喜一(政治家) 西田あいです(歌手) 鶴留明雄(競馬調教師)
参考文献
『蒲生郷土誌』 蒲生町、蒲生町、1969年、初版(日本語)。 『蒲生郷土誌』 蒲生町郷土誌編さん委員会、蒲生町、1991年7月31日、初版(日本語)。 『姶良町郷土誌』 姶良町郷土誌改定編さん委員会、姶良町長 櫟山和實、1995年10月、平成7年10月増補改訂版(日本語)。 『加治木郷土誌』 加治木郷土誌編さん委員会、加治木町、1991年11月、平成4年改定版(日本語)。 『鹿児島県』46、「角川日本地名大辞典」編纂委員会、角川書店〈角川日本地名大辞典〉、1983年3月(日本語)。 『鹿児島県の地名』47、下中 弘、平凡社〈日本歴史地名大系〉、1998年7月(日本語)。 原口 泉・永山 修一・日隈 正守・松尾 千歳・皆村 武一 『鹿児島県の歴史』 山川出版社〈県史〉、1999年8月(日本語)。ISBN 4-634-32460-1。
国 | 日本 |
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地方 | 九州地方 |
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都道府県 | 鹿児島県 |
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団体コード | 46225-0 |
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面積 | 231.25km? 推計人口、2016年2月1日) |
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人口密度 | 326人/km? |
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隣接自治体 | 鹿児島市、薩摩川内市、霧島市 |
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市の木 | くすの木 |
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市の花 | やまざくら、つつじ |
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姶良市役所 |
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所在地 | 〒899-5432 北緯31度43分41.6秒東経130度37分40.1秒座標: 北緯31度43分41.6秒 東経130度37分40.1秒
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近所のスポット
HairmodePlus
着付,化粧品販売,美容院,鹿児島県,姶良市,HairmodePlus
予算イメージ | カット ¥3900~ ヘアカラー ¥5400~ パーマ ¥5000~ |
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サービス | パーマ、シャンプー、トリートメント、ブロー、ヘアカラー、ヘアマニキュア、白髪染め、縮毛矯正、まゆカット、セット、頭皮ケア、フェイシャルエステ、マッサージ、ウィッグ、エクステンション、メイク、毛髪相談、ストレートパーマ、着付け、まつ毛カール、まつ毛エステ、ヘッドスパ |
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予約 | 当日予約可 |
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席数 | 6席 |
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スタイリスト数 | 2人 |
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掲載名 | HairmodePlus |
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フリガナ | ヘアーモードプラス |
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電話番号 | 0120-660966 0995-66-0966 | FAX番号 | 0995-66-0966 |
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住所 | (〒899-5432)鹿児島県姶良市宮島町55-1 |
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アクセス | ◆鉄道 JR線・帖佐駅・徒歩10分 ◆その他 市内より国道10号線を姶良へ向かい、山形屋交差点を右折200m 右側。 |
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駐車場 | 7台 |
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クレジットカード | VISA、MASTER、JCB、DINERS、UC、SAISON、NICOS、UFJ |
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URL | - |
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E-mail | - |
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営業時間 | カット受付09:00~18:00 パーマ・カラー受付09:00~17:00 |
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休業日 | 毎週月曜日(月により、第3火曜日) |
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株式会社さくら工建
家屋解体,ビル解体,はつり工事,解体工事
掲載名 | 株式会社さくら工建 |
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フリガナ | カブシキガイシャサクラコウケン |
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電話番号 | 0995-73-6318 | FAX番号 | - |
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住所 | (〒899-5431)鹿児島県姶良市西餅田1546-8 |
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アクセス | - |
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駐車場 | - |
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クレジットカード | - |
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URL | - |
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E-mail | - |
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営業時間 | - |
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休業日 | - |
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西クリニック
アレルギー科,形成外科,皮膚科,美容皮膚科,鹿児島県,姶良市,西クリニック
診療科目 | 皮膚科、形成外科、アレルギー科、美容皮膚科 |
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| 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 | 日 |
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診療時間 | 09:00 ~ 12:30 | 09:00 ~ 12:30 | 09:00 ~ 12:30 | 09:00 ~ 12:00 | 09:00 ~ 12:30 | 09:00 ~ 12:30 | ― |
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15:00 ~ 18:30 | 15:00 ~ 18:30 | 15:00 ~ 18:30 | ― | 15:00 ~ 18:30 | 14:30 ~ 16:00 | ― |
休診日 | 日曜・祝日・木曜午後 |
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予約 | 順番予約受付(ホームページをご覧下さい) |
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提携医療機関 | 鹿児島大学病院他 |
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院長名 | 西 正行 |
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医師に関する事項 | 日本皮膚科学会認定 皮膚科専門医 西 正行 |
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医療従事者及び従業員に関する事項 | 看護師6名、受付2名 (平成26年7月31日現在) メディカルエステティシャン2名 |
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健康診査および健康診断 | 各種健康相談 |
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入院設備及び病床群 | 無 |
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掲載名 | 西クリニック |
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フリガナ | ニシクリニツク |
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電話番号 | 0995-67-2412 | FAX番号 | - |
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住所 | (〒899-5431)鹿児島県姶良市西餅田117-1 |
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アクセス | ◆鉄道 JR線・帖佐駅徒歩15分 ◆その他 イオン姶良店近く |
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駐車場 | 有 |
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クレジットカード | - |
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URL | http://www.nishi-clinic.com/ |
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E-mail | - |
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鹿児島高牧カントリークラブ
ゴルフ教室,ゴルフ場,ゴルフ練習場,鹿児島県,姶良市,鹿児島高牧カントリークラブ
掲載名 | 鹿児島高牧カントリークラブ |
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フリガナ | カゴシマタカマキカントリークラブ |
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電話番号 | 0995-52-1600 | FAX番号 | 0995-52-0121 |
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住所 | (〒899-5307)鹿児島県姶良市蒲生町久末2489-1 |
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アクセス | ◆車 九州自動車道姶良インターから15分 JR日豊線重富駅から20分 ◆その他 鹿児島市内より車40分、鹿児島空港から車35分 南国交通蒲生駅から車5分 |
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駐車場 | - |
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クレジットカード | - |
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URL | http://www.takamakicc.net/ |
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E-mail | takamaki@kk-misumi.co.jp |
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営業時間 | 毎日07:00~21:00 |
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休業日 | - |
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天の川ペット霊園
ペット関連サービス,ペット葬祭,ペット霊園,鹿児島県,姶良市,ペット霊園天の川
掲載名 | 天の川ペット霊園 |
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フリガナ | アマノカワペットレイエン |
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電話番号 | 0995-67-1229 | FAX番号 | 0995-66-5310 |
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住所 | (〒899-5411)鹿児島県姶良市鍋倉403-2 |
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アクセス | ◆車 九州自動車道 姶良ICから8分 九州自動車道 加治木ICから8分 |
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駐車場 | 有り |
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クレジットカード | お取り扱いしておりません |
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URL | http://aira-koutuu.com/ |
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E-mail | - |
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営業時間 | - |
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休業日 | 24時間受付 |
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田中かまぼこ店
かまぼこ,さつま揚げ販売店,鹿児島県,姶良市,田中かまぼこ店
掲載名 | 田中かまぼこ店 |
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フリガナ | タナカカマボコテン |
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電話番号 | 0995-62-2218 0120-192218 | FAX番号 | 0995-62-3800 |
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住所 | (〒899-5221)鹿児島県姶良市加治木町港町33 |
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アクセス | ◆鉄道 日豊本線・加治木駅・徒歩10分 ◆バス 加治木本町停留所・徒歩1分 ◆車 加治木インターから3分 |
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駐車場 | - |
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クレジットカード | - |
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URL | http://www.agezukushi.co.jp/ |
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E-mail | shige@agezukushi.co.jp |
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営業時間 | 08:00~18:30 |
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休業日 | 日曜日 |
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有限会社長崎花屋
花,花屋,生花店,フラワーギフト,ギフト,宅配,花キューピット,長崎花屋,姶良市,鹿児島県姶良市
花植物 | 切り花、生け花用切り花 |
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フラワーアレンジメント用品 | リボン、ラッピング用品、ワイヤー、かご類、その他(吸水スポンジ) |
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ガーデニング用品 | - |
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ブライダル | ブライダルブーケ、ブライダルフラワー装飾、その他(ウエルカムボード、会場装飾) |
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弔花 | 枕花、供花、その他(祭壇) |
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その他 | 会場装飾、イベント、贈答用花束、ブーケ、ブートニア、いけ込み、フラワーディスプレイ、フラワーケーキ、ボックスフラワー |
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注文 | 電話注文、FAX注文 |
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配達 | 可、全国配達、海外配達、即日配達 |
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加盟グループ | 花キューピット(JFTD) |
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掲載名 | 有限会社長崎花屋 |
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フリガナ | ユウゲンガイシヤナガサキハナヤ |
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電話番号 | 0995-62-2696 | FAX番号 | 0995-62-2697 |
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住所 | (〒899-5215)鹿児島県姶良市加治木町本町10 |
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アクセス | ◆鉄道 JR日豊本線・加治木駅から車で5分 ◆バス 国道10号下り(鹿児島方面)本町バス停留所・すぐとなり ◆その他 国道10号と、かもだ想い通り交差点付近 |
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駐車場 | 有 (店舗ウラ側にあります) |
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クレジットカード | - |
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URL | - |
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E-mail | - |
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営業時間 | 08:30~17:30 |
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休業日 | 正月、お盆、第2日曜日(不定期) |
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八幡スタジオ
鹿児島姶良市,レコーディングスタジオ,録音スタジオ,八幡クリエイティブ・ラボ,八幡スタジオ,音楽スタジオ,PA,音響サービス,福岡,宮崎,格安レコーディング,イベント音響
掲載名 | 八幡スタジオ |
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フリガナ | ハチマンスタジオ |
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電話番号 | 0995-52-1096 090-8515-7301 | FAX番号 | - |
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住所 | (〒899-5302)鹿児島県姶良市蒲生町上久徳2286-2 |
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アクセス | ◆その他 鹿児島市内から車で25分。鹿児島空港から20分。姶良蒲生ICより8分。蒲生八幡神社を目指してください。御神木『蒲生の大楠』の下でお出迎えいたします。 |
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駐車場 | 有 |
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クレジットカード | - |
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URL | http://www.hachimann-studio.com/ |
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E-mail | info@hachimann-studio.com |
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営業時間 | 10:00~ |
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休業日 | 不定休 |
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亀山動物総合医療センター
獣医師,動物病院,鹿児島県,姶良市,亀山動物総合医療センター
対象動物 | 犬、猫、鳥、うさぎ、ハムスター、その他小動物(対象動物に関してはご相談ください) |
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診療内容 | 健康診断、外科手術、投薬治療、予防接種 |
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| 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 | 日 |
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診療時間 | 09:00 ~ 12:00 | 09:00 ~ 12:00 | 09:00 ~ 12:00 | 09:00 ~ 12:00 | 09:00 ~ 12:00 | 09:00 ~ 12:00 | 10:00 ~ 13:00 |
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15:00 ~ 19:00 | 15:00 ~ 19:00 | 15:00 ~ 19:00 | 15:00 ~ 19:00 | 15:00 ~ 19:00 | 14:00 ~ 17:00 | ― |
| ●受付けは30分前までにお願いします。 ●診療は予約診療です。 予めお電話でお問い合わせ下さい。 ●日曜・祝日は 10:00~13:00 |
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休診日 | - |
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予約 | 電話予約可 |
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院長名 | 亀山 和久 |
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獣医師 | 男性5名 女性2名 |
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従業員数 | 動物看護師(AHT)9名、トリマー6名、受付・事務4名 |
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保険 | 動物医療保険取り扱い |
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保険種類 | アニコム、アイペットクラブ |
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入院設備 | 有 |
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各種相談 | しつけ相談、カウンセリング |
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備考 | ペット美容院(トリミング・シャンプー・カット) |
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掲載名 | 亀山動物総合医療センター |
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フリガナ | カメヤマドウブツソウゴウイリョウセンター |
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電話番号 | 0995-65-6833 0995-66-3513 | FAX番号 | 0995-66-4282 |
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住所 | (〒899-5652)鹿児島県姶良市平松4985-3 |
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アクセス | ◆車 蒲生線池田パン近く |
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駐車場 | 16台 |
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クレジットカード | お取り扱いしておりません |
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URL | http://www.kameyama-vet.com/ |
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E-mail | - |
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おそうじ本舗鹿児島姶良店
ハウスクリーニング,エアコンクリーニング,家事支援サービス,ビルクリーニング,カーペットクリーニング,床磨きサービス,住宅消毒サービス,鹿児島県,姶良市,おそうじ本舗鹿児島姶良店
掲載名 | おそうじ本舗鹿児島姶良店 |
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フリガナ | オソウジホンポカゴシマアイラテン |
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電話番号 | 0120-083238 0995-73-3238 | FAX番号 | 0995-73-3237 |
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住所 | (〒899-5421)鹿児島県姶良市東餅田1229-11 |
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アクセス | ◆その他 ○鹿児島県姶良警察署近く ○鹿児島県自動車運転免許総合試験所近く |
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駐車場 | 有 |
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クレジットカード | - |
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URL | http://shop.osoujihonpo.com/detail/3624/ |
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E-mail | - |
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営業時間 | 受付時間 8:30~20:00 作業は土・日・祝OK 夜間もOK |
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休業日 | - |
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